見出し画像

大切な人を大切にするために

「自由・平等・博愛」は、"対等"な関係にしか成り立たない

と、思ったことがあったの。

ざっくり言うと、わたしは"親切"をしたつもりだったの。
でも、返ってきたのは、もっと寄越せ、だった。

わたしのしたことを棚に上げるでもなく、相手を批判するでもなく、後悔でもなく、ただすっと心に気づきがあったの。

わたしが心をひとつ渡したら
ありがとうをひとつ返してくれる人以外に
心を配ってはいけないんだなって。

例えるなら、わたしたち日本人が、貧しい発展途上国に旅行に行ったとして、現地の人に騙されたりぼったくられたりして金品を奪われてしまうことがある。
でも、彼らにとっては、生きるために当然のことをしたまでで、そこに罪悪感はないし、わたしは違う場所で生きているから知らなかっただけでそれがその地でのルール、みたいなことがあった感じ。

(この例えがすごく勝手なわたしの偏見を含んでいて、貧かろうが発展途上国だろうが全員がそんなことする訳じゃない、というのは前提として、思いついたのがこの例えだったと理解していただけると有難いです。)

その人はそのルールで生きてきたから、そこに悪意もないんだろう。
そもそものルールが違うからどちらが正しいとか悪いとかではないけれど、平気で奪う人と同じ土台に乗ってはこちらが消耗する。

だから、世界は"分断"が進んでいるんだ、と理解した。

風の時代とか水瓶座の時代とかになったよってよく聞くよね。

でもわたしはずっと、水瓶座「自由・平等・博愛」の時代になりつつあるのに、なぜ世界は"分断"が進んでいるのか、それらは同時に成立するのか、よく分からなかった。

平等、なのに、分断?
博愛、なのに、分断??
ってずっといまいち腑に落ちなかった。

でも、今回のことで、すとんとその思考のパズルのピースがハマった。

「自由・平等・博愛」は"対等"な関係にしか成り立たない。

だから、"対等"ではない人たちはレイヤーごと切り離されていく。

わたしは、
わたしが心をひとつ渡したら、
ありがとうをひとつ返してくれる人たちと関わりたい。
誰かがわたしに心を渡してくれたら、
わたしのできることをありがとうに乗せて全力で返してもいい人たちを大切にしたい。

奪われる不安を持ちながらじゃなくて、
安心して全力で大切にしていい人たちといっしょにいたい。

今までも、周りにいてくれた人ってそうだったんだなって思う。
やっぱりわたしは人に恵まれてきたんだな。

それに気づかせてくれて、ありがとう。