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私小説についての話

 私が「私小説」というものがあると知ったのは高校生の時です。母が購読していた雑誌を借りて読んでいて、そこで連載されていた小説が「私小説」でした。こんなに身近な人のことをこまかく書いて、家族から文句言われたりしないのかな?と不思議に思いました。私が書かれる立場だったら絶対嫌だな、と思ったから。「私小説」を書く作家さんと、その小説に書かれた身近な方たちの間では、そのことをどう思ってらっしゃるのか、知りたいと思っていました。

 その長年疑問に思っていたことの、1人の作家さんの場合の答えを先日知ることができました。滝口 悠生さんの『長い一日』の中で、滝口さんが小説に書いた身近な人たちとの、その問題のやり取りが書かれてあったからです。滝口さんの友人の窓目さんは、滝口さんの小説に何度も自分らしき人物が書かれているそうですが、特に気にしていないそうです。書かれた人物は自分だけど自分じゃないから、だそうです。いくらでも書いてくれたらいい、という考え方です。一方、滝口さんの奥様は、小説のためだからしょうがないけど、一部分だけを切り取って、それを自分だと思われたくない、という考え方です。その気持ちわかる!と思いました。そしてそういうやり取りも小説になっているのです。恐ろしい話です。だけど滝口さんの人柄で、それはきっと許容されるのではないかと思ったりしました。

 1つ思い出したことがありました。小学校の低学年の頃、父が1度だけ私のことを書いたことがありました。社内報でコラムのようなものを書く順番がまわってきて書いたものでした。家族には事前に相談はなく、ある日仕事から帰って来て冊子のようなものを見せられ、父が読んでくれました。そこに書かれていたのは、サンタクロースに関する話で、「娘がこう言いました○○○」という話が、私が言ったことと違ったので、「そんなこと言ってない」と父に言ったら、「言ってたやないか!」と言われたので、納得いかなかったけど、あきらめる気持ちになりました。父と母が抱く娘像に自分が合っていないけど、そういう方向に持っていかれる傾向があり、いつもそうじゃないんだけど、と思っていました。理想の娘像があったんだろうなあ。「私小説」のことを考えていたらそんなことをいろいろ思い出しました。

 今朝このnoteの文章を思い出しながら歯を磨いていて、あれっ?と気が付いたことがありました。今朝母が私に言ってきたことをラジオでしゃべろうかな?とその直前に考えていたのですが、それって勝手に家族のことをしゃべってるってことじゃない?と。このnoteの父のコラムの話だって勝手に思い出話を書いてるやん、と。我が身を振り返って恐ろしくなりました。「私小説」とは違うけど、事実に即して書いている…。小説ではないから家族の話を書いているだけ?頭がこんがらがってきたのでこの辺で終わります。これは継続して考える案件かもしれません。

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