生きづらさを感じる
私はかれこれ人生の半分以上、生きづらさを感じて生きてきた。
それは肉体的にも精神的にも特別なハンディキャップがあるとかではないのに。
昔から不安は強かったと思う。不安が強いと何かと生きづらくなるのかもしれない。
小学生まではまだそんなに生活するのはしんどくなかった。
中学生くらいだろうか。
毎日どこかしら疲れを感じて生活していた。
みんなどうして普通に学校に行けるのだろう?人間関係にいちいち悩まないのだろう?
そう思っていた。
思春期特有と言われていた眠気もあった。でも私はずっとその眠気が消えることはなかった。朝が毎日辛かった。朝の用意なんて10分そこらでしてぎりぎりまで寝ていたかった。
先日、身体が「ノー」と言うとき という本を読み終えた。大変参考になった。もちろん、この本に書かれていることが全部正しいというわけではないと思う。
というか読書の際、私が気をつけるのは、理解はしようとするが、鵜呑みにしないということだ。
まあそんな性格してるから余計疑い深くて生きづらいのかもしれないが。
それでも、やはり読むことで自分の中での疑問が整理されることもある。
この本では特に家族関係による社会的ストレスの積み重なりに焦点をあてる。
それまで科学的に身体の問題とだけ取り上げていた病気を、怒りなど負の感情の抑圧が誘発要因にもなっているという発見。
そしてそういった性質は、ただ遺伝的な要因だけではないという。代々育てられてきた環境を、子孫たちは無意識に繰り返してしまっているのだ。だから親のせいだけではない、という。
私は自分がよくわからない病気になってしまった原因をたくさん探した。日頃の姿勢が悪かったのか、寝不足がいけなかっのか…
でも結局原因なんて良くわからなかった。
脳の問題だということ。それくらいしか今だってわかってない。
環境のせいだとももちろん思う。生育歴とかも。
でも単純に親のせいにもしたくなかった。愛着障害という本が一時はやったけど、愛着障害はあまりにも親の育て方に問題を重くしてた気がした。
もちろん、本当に毒親もいる。サイコパスもいる。
でも私の周りにはそこまで悪人であるように思える人はいなかった。客観的に見ても。
結局何が言いたいんかよくわからんくなってきた。
生きづらさを感じるということは警告なのだろう。身体が非自己を感じる時、それも警告なのだろう。
受け入れろとどの本にも書いてあるし人にも言われるけど、受けられないという気持ちだったらどうしたらいいんだろう。
共感できないと孤独に感じるよね。
それでも好きなものや良いと感じるものを見つけながら生きていくのが良いのだろう。
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