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過去の点 今の点 未来の点 そして線どんな形が描けるのか。

 今日は何度目かの、上の娘ADHD(IQ128)の、診察日だった。
 いちおうIQ128は、意識して暮らす1年にしたいと思う。それ、すなわち特性を意識し理解しようとすることが、彼女のユニークさかつ不器用な点との境界のヒントになる気がするからだ。
 ちなみに血のつながっている弟は成人してから(する前も結局)紆余曲折で親亡きあとだったので私が病院へ引っ張ってというかあれやこれや言葉を並べ立て連れて行って調べた結果78であった。ちなみに十数年前当時の彼は、弁護士との面談の後、私が運転する車の助手席で「あそこのアパレルショップ見たいなあ。歩いて(一人で)帰ってもいい?」と言った。彼の面談理由は「消費者金融からお金を借りて自力で返せなくなった。さてどうする。」がテーマであった。情けなくて泣きそうになった。葬式でも泣いてないのに。この辺りでようやく親を恨んだ。4,5年経ってんのに。「我慢と忍耐」が私にあって、よかったと思う。もちろんお金を返せないことへの情けなさは多少感じたが、通常学級、高校と進学しても成績はずっと低空飛行だったため、社会に出てやっていけんのかなという心配はあったが、掛け算が分からないという事実から、数的な処理がもう、見ないふりにすり替わっていくのは時間の問題だったようだった。

 当時まだ弁護士が金融業者にそれ違法かもしれませんよ、これまでの借入金戻るかもしれませんよと介入する時代の直前だったと記憶する。利息が28.9%、利息って貸すときは年利なのに借りるときは月計算て、すり替え仮面さーん、と言いたくなるんだった。偏差値が20以上違うと話がかみ合わない、というのを読んだことがある。ということは私は弟との話がかみ合わないのでおそらく100以上はあるだろう。いいのか悪いのかはわからない。ただ、なんとなく、この件に関してはなるべく、「ありのまま」に近い形で記録するほうがイメージが付きやすいと思う。…旦那との話もだいぶかみ合わないから…。そういうことか。(私が下だわよ。まあ、普通なのだろうが。)ただし、この数値が高いとよい悪いとかいうだけの単純なものではない。

 私は弟の件ではじめてwiskという検査方法を知り理解しようとしたとき、賢い人も苦労してるという事例を知り、目から鱗だった。10数年前のナニコレマジで勘弁してよな弟の件も、弁護士と私の力で最終的に整理が付くとともに当時の弁護士の「そのような方々で生きにくさを抱えている人は割といます」という言葉を耳にした、その時、私の目の前には弟の人生のルート「ますます割と生きにくい道」「生きにくいなりに折り合いをつけて生きている道」の二本が視えた気がした。笑顔が多いのはもちろん後者である。その時の私と言ったら「親責任持てよ」と怒り心頭であった。しかしぶつけどころがない。ぶつけてもしようがないのだが。当時の私は自分の生きにくさは一度見ないことにして、弟の人生に折り合いをつけさせるルートどりをすることにしたのであった。フーーー。
 弟の話はいったんおしまい。
 さて、元気はつらつな娘が生まれたと思ったら、あっという間に月日はたち気が付けばコロナな入学式、入学式何時から始まるのかは1週間前になっても連絡来ずだれが送迎するの私仕事転勤したばかりあれまあ旦那もその日仕事…え、保護者体育館に入らないって?え、じゃあ荷物と本人だけ時間にいればいいんですかと始まりの時間の確認のために尋ねたら「は、はい。まあそうです」と返ってきた。旦那に行ってもらったらまさか看板前で写真の一枚も取ってこず。他にも並んでたからじっとしてないしとみんなそこを乗り越えてくるのに、さすが。まさかその10か月後座席にお尻をつけられないがかろうじて離席とは言えない謎な行動、もはや周囲から責められる場面でとっとことーと教室からいなくなるというお嬢さん。旦那自営業なので「学校で何かあったら第一連絡は父」が作戦的に悪かったと私は思う、担任は「何かありました」連絡をトドメがあるまで父にせずであった。

「親責任持てよ」

はっ。
あの時の自分の声が時空を超えてふただび、私の元にやってくる。
6月の面談時に、「掲示物ばかり見てまっすぐ歩きません」というと
一年生皆そうなんです、大丈夫ですよと担任。違和感持ちつつも
そうなのか…。心配しすぎたか…。気のせいか…。と
「自分の直観より教師の話をうのみにして」
決定的なことを言われるまで、うちの子はなんだかんだで大丈夫なのだろうと
タカをくくっていた。
違和感はあったものの。
2月、別途の面談になる際の電話で、担任と話した時。
「ふらふらしているんです。廊下でも掲示物をみて、前のお子さんから遅れて、後ろの子にはやく!と言われています。」
お、おお…デジャヴ…てか、それ私心配したやつジャン!!
そして面談
とにかく歯切れ悪う。(怒ってないよ、困ってはいたけど。)
同席した特別支援コーディネーターから
「必要であれば専門の情報も提供できますので…」

ありがとうございました、と面談を終えて、後日ふと
そのやり取りのことを思い出していた。
はて、なんの専門になるのだ。
あ、調べてないからわからないよな…。
…ということは、この特別支援コーディネーターから見て
専門家の介入も必要そうだという見立てで話してるっつうことか。
意図を確認したくなり、 
いてもたってもいられず職場の休憩時間に学校に電話をして
…↑上記のことを丁寧に投げかけた。
失礼なことを言ったと思ったのか
「学校の方から受診を勧める、ということではありません。あくまでもご家庭の判断です。」と返ってきた。言ってることはわかるけど私には何かこうピンとこない、歯にモノ挟まったような感じだった。それでも私としてみれば十分に「受診で見えてくるもの」の先を勧められているようなそんな気は
していた。そして、授業中など落ち着きのなさから、他にも面談を経て受診をしてくる児童、その結果支援学級での個別指導を受ける児童もいること、
ただし、個別指導の授業を受けるためには受診は必須(診断名ではなく受診とその結果が必要)ということだった。そこまで、まるで、まるでヒントのないパズルを、ヒントを拾いながら答えていっているみたいだなあと思った。(なぜだか、「なぜそういうことを伝えるのか」という意図のようなものは明かされた覚えがない。そういうもんなんだろうか。とても分かりにくい。「他と違うこどものその家庭」への介入というかアドバイスは、とても難しいのだろうか。)
その話を聞いてみて、上の娘がこれからたどる道すじが見えた感じがしたのだった。
次回の診察予約を入れて、今回帰宅した。帰宅すると、昨年のことがいろいろと思い出され今に至る。

 そのまま外食となった。薬なしで過ごすと、なんだか気のいい酔っ払いのようにふらふらへろへろしている娘だった。
支払いを済まして移動しようとすると、向かいの別の店のお子様セットが気になって「やあ―これ見てー」とへらへらして、つないだ手もテナガザルのようにびよーんとなりながらグネグネしている。
「ちょっと、」
しっかりしな、
と言おうとすると、
近くのお店の会計をしている最中のママさんが、こちらの方をガン見している。目をそらさない。娘の先になにがあるのか。
振り返ったが特別何があるわけではない、食べ物のショーウインドーである。
ああ、これ、へんちくりんな娘が見られているのかと理解した。そんな気はしていたが。
まさか、食べ終え会計を済ます人が、娘の頭越しのショーウインドーの
メニューを
「あっちのお店で食べればよかったわ」と
見てるとは思えない。98%くらい。思えない。
とにかく見られていた。
帰宅後風呂に入りながら当時の画面が再生された。
けっこうモヤっていたのだ。
「どうかしましたか。」
と声を掛けたらよかったか。そしてなんていうの。
「うちの子ADHDなんで。」
いきなりけんか売る人みたいだな…
なんて考えていた。

こういう時、調子がいい時は「発想の転換スイッチ」が入るようだ。
(ちなみに覚えている限り、初めてこのスイッチが入ったのは
母の余命宣告の半年のうち3か月が過ぎ
あろうことか父にも食道がんがわかりさらにそのがんは
5年生存率が20%以下ということを大学図書館の書籍で知るが
改めて
動物の寿命からいって親より子供の方が長生きするのは当然のこと…。
私が死ぬわけではなく、親たちの寿命がはっきりしただけのこと、か…。
と、目の前で起こっている状況は生物的に当たり前の状況と気が付いてしまい、しばらく次の思考はどうしたらいいのか途方にくれた、ことがあった。
だから、周りの人(とくに大人)に「かわいそうに」と言われても
「かわいそう」とか「自分は不幸だ」と思うことはできなかった。おそらく
言った人たちは、父や母に言ってしまいそうな自分の心の本音を、
子どもたちに漏らしてしまったのではないかと思う。

さて、まとめに入るが、うちの子のADHDはこれである。

A アクティブ!!!
D だって、
H ほおっておけない
D ドゥオタぁー(娘)


場面ごと、体調ごと、睡眠時間ごと、血糖値などによっておそらく
彼女の調子は異なる。
そのうえで最も気を付けるべきは、
アクティブ!と目を離すこと(ほおっておけない)なのだと思っている。
だからこれでいいのだ。
医学的ADHDは、学校や役所など書類の必要な時に共通言語としてさっととりだせればいい。利用できるところは上手に利用できればいい。
私も親として、子どものIQ128を大いに利用し楽しんでいきたい。

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※補足…記事に矛盾するようですが、日常生活で子供のIQ値を他の人に話すことはないのです。あるとしたら、放課後等デイサービスや学校、といった支援の立場にある方に対して情報としては伝えます。
 また、発達の凹凸があるため、楽しむといっても今後、成長し、また思春期を迎えていくにあたってなど、対人関係のつまづきなどがみえてくることもあると思います。そうした時に、WISKで明らかになる数値は、目安のひとつ(どんな凸凹として表れやすい、どういったつまづき方をしやすい、どういった環境だとすんなりいくのかなど)として押さえておくという意味でもあります。そして、個人的体験においての、78や128といった数値で見えるけどその間にある見えない壁のようなものを指しているというわけでもあります。

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さいごまでお読みいただいた方、お付き合いいただき、ありがとうございました。