見出し画像

どこからともなくとはどこからだったのだろうか。

写真は、愛子の諏訪神社。

あの「声のようなもの」はあのときの自分だったのか、それとも
他の人の声だったのか。
珍妙な話ですが
そんなことを思い出しました。

ZAKAchanさんの記事を読み、我が事を思い出したのでした。


なにかの拍子に、自分のビジョンが、視えたという体験談についてのお話でした。


私にとっては、
母が亡くなる日、わずか2時間ばかり前に、病院の母のベッドの下(床)で
ゴザをしいて(病院で、日貸ししている)
※思えば1日いくら、一週間だと割安でいくら、という設定、そこで迷うのもシュールだなと思ったものだ。

突如
「この体験を書いてやる」との思いが湧き上がった。
その後、こまめに毎日のように、
何があったのかノートに書いていた。

その後、
ノートを開くたびに、思い出すもんだから
良いフラッシュバックの練習になってしまったかもしれない。
父が、母が危篤となってから
「お母さんが『悪い奥さんでごめんね』って言うんだよ」と、泣いた。
強烈である。

その後、
悪い奥さん の真相が。
憶測であるが。

初七日すぎ(葬儀のあと)平日の昼間に
母の「昔の友人」がお焼香に訪ねてきた。
男性である。

私が対応したが、どこの誰だかわからないままだ。
しかし、写真が残っている、古い写真が。父ではない男性とうつっている、母の。

他の人も一緒に写ってもいるが、残っているのだ。大切そうな雰囲気で、アルバムに。

一度父が言っていた。
「おまえたちのお母さんは、本当は他に結婚したい人が居たのだけれど、親に反対されてできなかった。だからお父さんと結婚した。本当に好きな人と結婚しなさい。」※矛盾してるのはデキ婚である。やったモン勝ちとはこのことだ。

反面教師というやつか。しかしダブルバインドとはこのことだろう。
親の教えと実際の行動が明らかに矛盾している。

「書いてやる」と、死に目の境い目で決心してみたものの、書けば書くほど苦しみしかでてこないし、苦しさや悲しみが増幅するのだった。

それでも、このとき、
書くといったら書く、が徹底されたのか、
単なる書きマシーンとなることを覚えたのか、
その後、
震災で、被災中もニュースを抜き出して書いた、隣の県の旦那の実家に2週間避難してたときも書いた。

赤ちゃんの、記録も7ヶ月くらいまでマメに書いてリズムもわかった。

書き倒して、飽きた頃には、一周半ぶんくらいになっているといった感じだろうか。

書くことで、リズムを刻んで、次に繋ぐような、そんな使い方だったかもしれない。
今となっては、それらの記録は
どこへ行ったのだかわからないけど。

ハナシは、はじめに戻るのだけど。
その、
「この体験を書けと言っている」かのような声、
に、似て、
消去法でもあるが
「将来何を生業とするか」を「真剣」に考え、考え尽くしていったとき、
現状の立場と持っているコマをそろえたときに、
カチッ、ピーン、と
職業というか分野が視えた。
それしかないと思ったが
それが一番好きかとか、得意だったかというと
そうでもないが
それなりに続いたということは
それなりに適正はあったのだと思う。

そしてさらに
「カチットピーン」でのむこうがわにたどり着くまでに

思えばスペシャルな体験をさせてもらった。

「これでよい」「こっち、そうそう!」というあらわれだったかもしれない。

さて、
ここしばらく、「こっち!そうそう!これでよい!」と思えるような体験が少なくなった気がしている。 
なぜだろうか。

そんなに気合い入れ込まなくても、もう、大丈夫!!という現れであろうか。


思えば、
あの時、母の死に目2時間前のベッドの下と云うのは、
母のお迎え係のいろいろな繋がりの方々も
押し寄せていたのではなかったかと推測される。
あたしゃ視えないけど。
その色々なつながりの方々の中には、私に近い方どのつながりのある方もいたかもしれない、だから、切羽詰まって、
どこからともなくと感じたものの、
見えない世界の方々が視せた将来の姿のうちの一つだったのではないか

なんていう妄想を、膨らませたりする。

悲しいことだけじゃなくて嬉しいことも、
嬉しいことだけじゃなくて悲しいことも、
ちゃんと、向き合って書ける人になりたいなあ。


お読みいただきありがとうございました。