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11かいめの311

今日のような311は、まことにはじめてでした。
まず、子どもの通う施設での感染者が出たために
子どもが濃厚接触者となりまして
施設の学級閉鎖のための、仕事を休むにあたり
前日から仕事道具は持って帰りましたが

なぜだか
お昼を食べ終わった後にめずらしく頭痛が。
そのまま横になって休みました。

すると、気づいたら15時、上の子が帰宅時に
下の子がカギを開けてくれ、2度寝。
そのまま、父帰る18時まで
爆睡しておりました…。

なんてこった…と言いたいところです、が

もしかしたら私にとっての震災復興は
一段落ついたのかもしれないと思いました。

毎年、昨年まで、
311は、黙とうをかかさないばかりか
1.2年は現地で、その時間を過ごし、
その後もできる限り足を運んだり
海に訪れては、これまでのことやこれからのことを
考えるようにしていました。

これまでのことと言えば
実家の家族を、父母にかわって支えてきたこと、
とくに精神疾患のある親族と認知症の祖母の、
現地での生活をいかにするか、ということを、
福祉の人たちに協力してもらい行ってきました。
4年前には祖母を看取りみおくったこと。

大きくはこんなことだったかと思うのですが
自分に焦点をあてると
東京オリンピックが決まったころに妊娠が発覚した子どもは、
不妊症の治療も受けていましたが結果的に自然妊娠で
計画的というか執念で結局2人出産にこぎつけたこと
分かっていたこととはいえ大黒柱兼育休中、
復帰後の生活もなかなかしんどく、でも
自分が決めたと思えばしんどいと思うこともできない
性格だということでなにもかにも背負い込んできたなあという
ことに気づいた今日この頃だったのかもしれません。

11年前
震災数週間前に、この日使う着物を実家に取りに行ったのが
震災前祖母にあった最後でした。

震災2日前の地震のときに電話をすると
「インフルエンザで寝ていた。熱も下がってだいぶいい。」と言われ
心配になってめずらしく提示帰宅し実家の祖母の様子を見たのでした。
レトルトのおかゆをもって。311のとき、一時は「祖母に最後に会えたからあれでよい」と納得させて、翌々日明け方、旦那の説得で隣県にある旦那の実家に避難しました。旦那は福島のニュースを聞いて「圧力容器の中を(仕事で)見たことがあるけど現段階で冷えてないのはかなりまずい」と言い出したのでした。ニュースを聞いて大変だということくらいしかわからなかった私は、この人何言ってんだろうとは思いましたが。チェルノブイリになりかねないと言い出しました。なんでこの人そんなことわかるんだろうとびっくりしました(ふつうはわかるのかな…?)。平常時にはポンコツにみえますが、異常時には異常に強いとわかりました。(平常時にポンコツとわかったのは子供が生まれるあたりになってからです)

震災後、祖母たちはとっさに2階に逃げて、翌日自衛隊のボートで脱出しました。お彼岸過ぎに実家にいったとき、レトルトのおかゆはそのままありました…。ご近所の1階建ての一人暮らしのお家では、亡くなっていた方もおりました。実家の屋内で150センチくらい水が入っていましたので、気づかず1階に滞在していたらアウトだったと思います。猫2匹が無事だったのが謎です。高いところにとっさに飛び乗ったのでしょうか。ピアノもひっくり返っていました。


震災で、家族のことで、後悔がないのは、おそらく祖母たちの言い分、また社会のニュースをよく見て、動いたことだったかと思います。
自分で言うのも何ですが、当時の持ち駒は時代の最先端を言っていたと思います。被災地、老々介護、遠方介護、その先にみえたのは最悪孤独死でした。また、それらのキーワードは、すでに、阪神淡路大震災で、言い尽くされていたことではありましたが、当事者ではなかったために、それらを取り入れることは難しい、と思っていました。専門職は、それなりのノウハウを持っていたのでした。一度で、ストンと進むことはなかったのですが、(本人たちの生活と性格もあり)ですが「試行」と「錯誤」を繰り返す中で、こちらの「思考」もバージョンアップしていき、対策がはまるようになっていったのでした。
山より小さいに人間のはず、が、「山は動いた」と言うくらい、動かすことは難しかったですが結果動きました。私もこれまでの人的対応のすべてを思い出して、「絶対に外せない仕事」のレベルで向き合いました。なんなら、副業です。ですが賃金はありません’。が、経験は残りました。
説得でした。誰と説得するか。本人が信頼している人(医者)の前に、日常生活を(期間限定で)的確に回す家族(私)が現れ、医者もいいように使ってくれました。老々介護は、一時休戦、一人は糖尿入院にしぶしぶ納得し半年家を空けました。その間、祖母は孫(姉)宅へ。ひ孫たちと楽しく過ごしました(四階の社宅で、苦笑)。

その後、5年ほど、もとの家で暮らして、3か月入院の末祖母はお迎えが来ました。
亡くなる2週間ほど前には、食欲がなくなり部屋が替わり、
それまでよく話をしてくれた同室だった元気なおばあさんに「部屋が変わりました」というと、
ハッとした表情をして、「もう少しだから、だいじょうぶだ。」といわれました。今思えば視える方だったのかもしれません。
それより前には「あんたのやってることはお天道さんがみてっから、頑張らいん。」と言われ、お天道さんが見ているって、昔祖母も言っていたなと思い出しました。これって、天照大神のことだったのかと思いました。
そのおばあさんは、「南相馬市に住んでるの」と言っていて、「震災大変でしたね」と私が言うと「海の方は大変だけど山に住んでるからなんともなかった」と言っていたのが印象的でした。(ボケているというかんじではないです)

上の子妊娠中は、働いていたのですが、途中で切迫早産になり、病休をとって休むこととなりました。思えば、5月の連休も、実家にいっては田んぼの売買の話(町の新市街地造成のためにかかった)のやりとりなど、当時は県派遣という名目の話の通じないおっさんとのやりとりで勘弁してくれでした。当時は仕事もいっぱいいいっぱいで、職場に穴をあけるまいと通院も土曜などに極力していました。若くないのに。高齢出産だったのに。
健康体でしたが、ある日夕方いままでなかった出血があり、
「なんじゃこりゃ?」と試しに病院に問い合わせてみたところ
念のため来てみてと言われ、切迫早産のためにそのまま入院となりました。
その後1か月の安静のための入院生活で歩行できなくなりました。
ベッド上から実家でお世話になっていた保健師に
「入院しました。お世話できなくなりました。これからは◎◎さんに(別の親戚)対応をお願いしています」と伝えました。申し訳ない気持ちでいっぱいでした。今思うと微妙です。なんで申し訳ないと思わないといけないんだろう…でもこの感覚を知ってたか知らないかって、「人間を知ってるか知らないか」というくらい大きい違いがあるように思います。
その後、保健師さんは大変きちんと対応してくださりました。
言い方わるいですが「大当たり」な保健師さんでした。かゆいところに手が届く方でした。福祉対人業務の鏡のような方でした。

退院して自宅で静養していたところ、ある日のNHKニュースで被災地の避難訓練が映し出されていました。よく見るとそこには
ご近所の人に手をひかれた祖母が映っていました(なにも聞いてなかった)。
それを見て私は「私だけ抱えるものではもはやない」「協力してくれる人がいる」「ゆだねてよい」ということだと理解しました。公共の電波がそれを教えてくれたとびっくりしました。

被災して間もないころ、NHK福祉分野の取材の申し込みがその頃お世話になっていた施設を通じてありました。
一度名刺をいただいたのですが、家族に伝えると「嫌だ」と言われ、
それを先方に伝えると「(本人に)言ったのですか」
と言われ、「言わずに取材できるかい」と思いつつ口止めもされてないし時に泥棒妄想がでるので
なにかあってからでは遅いと思い、嫌がっていることを伝えて断れて良かったと思いました。泥棒妄想ではその後、信頼関係を築ききれていない福祉の担当をチェンジする事態となり、その間のことが無駄になったような気がして、ずいぶん骨が折れた感じが残りました。この際に学んだのは、真ん中に当事者を置かないと、あとからひっくり返されることがあるということでした。ですから、そのような場面になることがある際には、なるべく気持ちよく話ができるように聴くことを心掛けるようになりましたし、そうではない専門職に会うと、「あれ、この人大丈夫かな」と私の中でアラームが鳴ります。

自分の妊娠出産やその後の家族の成長、それから仕事、老いてゆく家族のこと、そして自分の健康といったことをかんがえたとき、それまでは、いかに早く復帰して大黒柱なるべく稼ぐか、と言う視点でおりました。ですが、一人目の妊娠中から出産、その後を考えた時に、自分の家庭だけなら好きに回しようがあるが、祖母たちのことを考えると、これでは自分も病休とりかねない、良くて介護休暇だと気づきました。そこで、職場にはご迷惑おかけしましたが、上の子からはじまり下の子の最大限育休をいただき、復帰することとしました。結局のところ、子どもが小さいうちに復帰をしてしまうことのリスクは、子どもの病気による休暇取得で、仕事を回すのに苦労すること、収入が上がると税金も上がり、保育料が高くなり、意外と手元に残らないこと、があると気づきました。大黒柱というのは手放せないとずっと思っていました。いまでも手放し切れていませんが、家事と育児は手放しています(笑)

家族関係の少ない持ち駒の中での被災地とのかかわりの数年でした。
親がいたらこんな苦労しなくて済むのに、と考えることもありましたが、それを考えることで何も得られないと知っているので考えることもやめました。
ちょうど、テレビをつけると、震災で保護者を亡くした方々が対面してお話をする場面がありました。
私自身は震災で亡くした両親ではありませんでしたが、
私もかつて悩んだことが悩み事としてあがっておりました。

震災の日の朝、着物を着る仕事にあたりました。祖母と選んだ着物でした。
着付けのため、いつもと違う場所へ、朝早くからやっている美容院に行くために通った道がありました。帰り道はバイパスに出るT字路が信号故障で曲がれないことに気づき、その日の朝に通った道を思い出しました。いつもは通らない川沿いの道と、農道を継いでバイパスをかわし、渋滞にはまることなく帰宅できたのでした。
しかし一人で運転する中の、余震というのも、なかなかハードな体験で、心臓がバクバクしっぱなしで、何度か休憩を取りながら、いつもなら30分ほどの道でしたが、1時間半くらいで帰りました。

一度自宅にもどるとき、お隣の奥さんと会ったのですが、「◎◎(沿岸の地名)の実家に子どもを預けているのだけど連絡が取れなくて…」と憔悴しきって話す様子に、とっさに「きっと大丈夫ですよ」と言ったものの、現実はしばらく、旦那さんの物と思われる大きいサイズの汚れた長くつがでておりました。
だいぶ暖かくなったころ、二人のお子さんが見つかったということで
お隣からお線香のにおいがする日がありました。お花を持ってお焼香をさせていただきました。時にこどものけんかをする声も聞こえていました。生きていればこその日常だなと改めて思い出します。少しして、お隣は他のところに引っ越していきました。古い団地だったのですが、数年で取り壊されるという話なので、自分の子どもたちにもいずれ聞かせたいと思います。

311当日、夜電話での連絡の取れなくなっていた旦那を探しに避難所になっていた近くの公民館に行きました。
その時、下はスポーティーで、ヘアスタイルは着物を脱いだ後なので、この混乱のさなか絶賛水商売風となっており、
この違和感たりゃ、ありゃしない、と思いました。すれ違うみなさん頭に注目されていました。
そのまま市内の旦那の事務所に行くと、いました。その日は多層階の自宅のほうがしっちゃかめっちゃかだったので、事務所で寝ることにしました。
翌朝、自宅に戻り、丘のてっぺんの上の階から見下ろした仙台平野の東部が
きらきらと、輝いて見えたのは、津波が来た場所を示していたのでした。だいぶ内陸ととらえていた、東部道路をこえて(くぐって)、津波の到達線と思われるまだ水のはらない田んぼが光っている姿は心底不気味に感じました。
事務所の近所の様子を、街のようすを見に、駅や商店街の方をまわりました。
駅の東の旧奥州街道沿いは、車が渋滞となっていました。
公園に行くと、水が出る水道がありました。
飲料を扱う工場では、地下水を住民に配水していました。
携帯電話はつながりませんでしたが、公衆電話があり、かけてみました。
実家も親戚の家もつながりませんでした。後から思うと当たり前でした。
北関東の親戚には、防災ダイヤルにつながりメッセージをいれました。ただしどちらが被災側にあたるのか、12日朝の時点ではわかりませんでした。
言葉を失ったのは、川の風景でした。
海岸線から5キロも上流なのに、車ごと、流されている風景がありました。
近くに住む知人の話ですと、早い時間にはご遺体もあったようだと聞きました。
この時点で海岸から2キロ以内の実家もどうなっているものなのか、想像しましたが、その時点では見たことがないので、想像できませんでした。結果的に、「津波はきた」けれども、「家は流されてはいなかった」のでした。
それでも高さによって「全壊判定」でした。道路を挟んで隣の、新しい、家ですと、土台が高く「半壊」など、近所でもいろいろな違いがありました。
あたらしい立派な家でも、気密性が良すぎて浮き、そのまま流されて、空き地に座礁…など、いろいろなケースが、ありました。
13日の日付けが変わるころ、隣県の義実家にむけて、布団や荷物をもって移動しました。ガソリンをかき集めました。旦那がバイク大好きなだけあり、車+携行缶にもはいりました。まさかでした。途中の道の駅ではじめて見たテレビの画像で、はじめて津波の来る様子を見たのでした。



あれから、11年、年もその分とりました。
あの時、周囲にいた、年長の人たち(区長さんや近所の人など)は、どんな思いでいたのだろう、どんな思いで声を掛けてくれていたのだろうかと
想像しました。

とくに、当時の区長さんから、避難所で声を掛けられた時、
「ばあちゃん、わからなくなってる。」と、いわれたとき、
はじめに、考えすぎと思いました。状況が状況だけにすぐ戻るのではないかと。ですが、いつもそこで見ている「他人」が、家族の健康状態について口にしてくるというのはよくよく考えればよっぽどのことです。
確かに、迷子になりやすい、とか、物忘れがあるのは昔からのことでした。
だから、今回もそのとおり、の部分もあったと思います。ですが、
避難所という性質の場所で、そういった状況が長く続いた場合、
迷子になったことに気づかなければ、どこまでも歩いて行ってしまったり、認知が悪くなれば転んでけがをしたりすることもありうるわけで。

自分がもし、この区長の立場だとして、そういった見えている事実を、
今後の心配も含めながら、子ではなく孫の立場に口にする、となったら
むごいなあ
と感じると思います。でも、伝えざるをえない。(立場もあるし。)
結果的に、そこから、福祉にやっとつながりました。
それまでは本人たちが拒否して、だめだったのです。
人の世話にならなくて大丈夫と。

311にさいして、失ったもの、気づいたこと、いろいろなことが
あると思います。
私はどこかで、
他の(多くの)人のようなものを失ってもいないし、
私が気づいたことはレアケースだと思って、
自分は自分にかかわる震災の11年をどこかで軽く扱ってきたような気がします。さほど価値があるものではない、とおもってきたのだと思います。
同時に、ずっと自分自身の人生を生きるのを、あきらめていたのではないかと…。

11回目の311という日に14:46をまたいで昼寝をして、
罪悪感もなく思いのほかすっきりとしており、、、

ニュースなどで見る震災関連の風景に自分の中に違和感があったのかもしれません。ニュースが悪いわけではありません。

他人の書く、311の話がどこか、ときにうさんくさいというか、
きれいなところをまとめているなととらえてしまう自分に、
あれ?と感じていました。
そこで気づいたのは、
自分の中の311を、掘り起こし切れていない、ということではないかと
思い当たったのでした。
でも、掘り起こすことが、何かほかにあるのだろうか、と言う気もします。
他のかかわり方がある、と言うことなのかもしれません…
うまく表現できないのですが、
11ねんめの311に際して、
まとまりのつかないまま、書きました…💦

お読みいただきありがとうございました。