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何が、正しいのかはわからないけれど、回答のようなもの


先日、何度めかの、グリーフケアについての講座を受けた。

何回かの講座の中で、さまざまな立場の講師が自分の専門の中からグリーフについての話をする。

これまでだと
講師=語ることは全て正しい
みたいなイメージで生きてきたが

ウォッ

となったのが、
ある講師でお坊さん専門職の人は
「あの世について、実際に見た人はいないからそうであるとは言えない」

ようなことを言い、
かと思えば
ある講師でトラウマなんかが専門の臨床心理士の話からは
「自分は仏教に親和性があり、曼荼羅の世界が云々」と
言ってること、
口から手で来る言葉自体は
同じ目的の講座のはずなのに
反対のことを言っている。

だけれど、おそらくは、
「簡単に(死別について)言い切れるものではない」
ということは共通しており
だからこそ、様々な視点を維持しながら
ことを進める慎重さ
みたいな姿勢が必要な分野という理解で落ち着いた。

前回、ギョギョだった一番の話は
その講師である臨床心理士の私見という前提であるものの

ある一人の人生が180度変わってたかもしれないということに気づく
コペルニクスもびっくりな
発言であった。

とある精神疾患について、これは原家族の一人が
若い頃、おそらくは高校時代を発端として、
かかり、診断(医師の病名確定)はおよそ10年、その後入院、療養とそこからさらに50ねん、までは行かないが40年は過ぎている。
「遺伝もあるのでは」と書物で見たこともあり
私もいずれは?と考えたこともあったが、しかし他の家族を見ても、「病気自体」の特徴を持っていそうな人もおらず、うーん?と思うふしもあった。医者じゃないけどさ。

当時は、カギの、檻のあるドアを行き来しないとお見舞いに行けなかった、、、と、祖母は嘆いた。そのことについて、その話の流れになると祖母はたいてい嘆いていた。自分の子どものこと、そして、力をあわせられなかった祖父(夫)を嘆いた。今思えば神父さんでもいたならば祖母はもっと救われていたのかもしれない。だが療養歴の長いその子が祖母の葬儀の喪主も務めたのだから、周りの苦労いや、祖母も安心した、いや、はじめから本気出せとおも、、、シー。まあいいや。

で、
コペルニクスが、どうしたのかというと
私の中のコペルニクス的発見は
その臨床心理士の私見として
最終的に講座の中で質問もして発言の意味もよくよくかいつまんでもらったほどだが、
「服薬で、症状をおさえて治ったこととするのではなく、その方にとって別の方法もあったのではないかと」
という話だった。
今どこをどう見ても(素人レベルだけど)
その某精神疾患の治療として目にするのは
「良い薬がある」「服薬が効果的」であって、
講師が言うには
「本当にストレスのない、良い環境でゆっくり休む」ことでの改善の可能性についてだった。
しかし私は、そう全面に推し進めて書いてあるものを見たことはない。しかし見たことはないのだが
どの病気になったとしても
「本当にストレスのない環境でゆっくり休む」のは当然のことのはずだが、
現代に生きていると、ゆっくり休むことのゆっくりの中身が、もはや機械的な、病気より効率優先のうえでの休み方というか、

かつてはそうではなかったかもしれないが
本当にストレスのない、という設定もまた
非常に難しく、
親族の場合においては
偏見の多いこの病気について、
「こんな病気になってしまった」と言う前提が、
本人はまだしも、
親、特に母(私の祖母)から
病人である本人にも
ビシバシ伝わっていたことだろう。
その環境がストレスのない良い環境だったと、言えるわけがない。
しかし、
そういった、家庭内のことについては、
家族メンバーの対応から、
病気の家族にどんな影響をもつのか、
などは
まったくノーマークで、これまで
きたのではないか???

「良い環境でゆっくり休む」ことができないのであれば
病人にとっての療養にはつながらないということは、
もしかしたら以外と、皆さん、
気づいていたけど、仕方ない仕事がーとかして
エイッ、と、
見てみぬふりをしているうちに、
そのうち薬、医者、ハイ、オワリ症状キエタ

としているうちに
一人大我慢大会個人の部優勝、なんてことに
なって。

「病気のときは環境のよいところで休む」ことの重要性をスパッと切り落としてしまい、
薬のちからで症状を、無いものにして、もしかしたら違う診断名のもと、
そのうち薬の、副作用なのか病気の特性なのか
判断できないような生活(身近で見てて心当たりあり)に対しての、
診察を繰り返すのループ生活、、、。

私が質問してめ鱗だったこと。

幻聴や幻視は、「〇〇〇〇症」の病気の症状として多いと出ており気をつけるようにとか、良い薬がでているなどとあり、「〇〇〇〇症」といえば幻聴幻視というイメージでいたのですが、そうとは限らないのですね?

と尋ねたとき、

「幻視や幻聴は、ものすご疲れたときなど脳がエラーをおこすと出てくることがあり、疲れが取れればおさまるという場合もある」

、、、という話でした。
ほえー、知らなかった!!(まじです)

ということは、幻聴、幻視がかりにあったとしても、たしかに「アタマはおかしくなった、なっている」のだけれど、だからといって、=精神疾患である というわけではない。

よっぽど頭が疲れているから自分で判断も難しいのかもしれないが、「良い環境でよく休む」ことが、第一条件であるということに気づいた。腹落ちというやつだ。

しかし、「良い環境」を作ることこそ、一番の課題ということもあるだろう。原家族はまさにそうで、最終的には、病気の人、病気で亡くなる人、寿命でなくなる人、と、整理されていくうちに、原家族のなかの元祖病人、にとっては、「ストレスの少ない環境」となり、、、今に至る、、、。
(講師曰く、
薬の服用で症状を抑え、その病気であるという診断名を受ければ、その先は診断名に左右される人生になってしまうケースが本当に多い。本当は「十分な休養」で改善するとしたら、その人にとって人生が別の場面になってしまう)
という話であった。

グリーフケアを学んでいたら、突然、原家族の課題が見えた。家族が苦しめられてきた病気回復における間違った捉えに気づいた。
(あくまでも臨床心理士の私見ではあるが)

講師は
私の仕事は曼荼羅の中の答え探しだ
と言っていた。

あの曼荼羅の砂絵の中から、いくつかの砂が
私の方に砂が飛んできたのだろうか、
答えの一かけらとして 。


お読みいただきありがとうございました。