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「新潮45」の特集に対してわたしが思うこと。

今回の「新潮45」の記事の件、新潮社文芸部の方々の健闘に救われています。
                           
ちょうど先日「ペンタゴンペーパーズ」をみたところ。
論点とか議論とかを通り越して、そもそも「出版(パブリッシュ)」とは何なのか、どちらかというと声を持たない弱者の為であるべきではなかったのか、そんなことを考えています。「平等」とか「正当な議論」とかいうけど、そもそも大きな声を持ち、それを全国規模に轟かせて社会的マイノリティを打ちのめした人間の”擁護”を、大きな雑誌で再び大きな声を持つ人間の言葉で載せているこの状態は全く平等ではないと思う。弱者の声は誰が聞き取り拾うのだろう、それが出版ではないか。
                           
同時に最近、スポーツ界における数多のパワハラ問題や、この一連の杉田騒動(わたしも本名が杉田だけに、肌感覚として“倍“忌々しい気分になるけど)に関して考えているのは「力」を持つ者たちの人権感覚の低さ。
                           
通常、何か書かれたものに対しての意見はそれを読んでから行うべきだけれど今回わたしは「新潮45」を抜粋しか読んでいない。そして読む必要もないと感じている。なぜなら冒頭に書いたように、力があって大きな声を持つ者たちが、全国の書店に並ぶ雑誌という媒体を使って「社会的マイノリティ(少数弱者=現在のところはね)」を叩きまくる、という行為そのものが巨大な“パワーハラスメント”であって、そこには“モラルハラスメント”と“セクシャルハラスメント”も含まれており、もはや綴られている言葉のディディールはどうでもいいからである。

                           
ベスフレが小さなプリンセスソフィアにはまっているので、どういうものなのかと一緒に観てみた。
ソフィアがプリンセスの学校に登校したいちばん最初に歌われる歌、は、ここではプリンセスになるためにいろんなことを学びます、でも
「♪いちばん大切なのは相手の気持ち考えること」
この部分が大きなサビとなって天使たちがソフィアに何度もこの部分を歌いかけていく。
シンプルな歌詞の繰り返しが思わず大人の胸に刺さる。
本能的な反応として涙が溢れてしまって妹に「え? もしかして泣いてる!?(笑)」と笑われた。
                           
多分わたしは「このこと」がここ数ヶ月きっとすごく気になっていたのだ。「相手の気持ち、考えること」
たくさんの事件が、いかに「相手を言い負かす」合戦のようになっていて「相手の気持ち」が踏みにじられていく。
筋を通し論破することとと「相手の気持ちを考えない」ことは全くべつのことであって「気持ち、気持ち」とか言うと、感情で世界は変えられないような論調にまたなっていくのだが「基本的人権の尊重」こそ、日本憲法の根幹にあるものであって「力」と「声」を持つ人間たちは、「生産性」だの「性的嗜好」だの、細かいトピックで揚げ足を取って弱者を叩く前に、じぶんが憲法の真髄を犯してはいまいかを考えて欲しい。考えて欲しい、と下に出るつもりは実はなくて、今「力の時代」がもう終わりに近づいてきていることに早く気づいて変わらないと、あなたの人生もかなり惨めなものになっていくよと警告してあげたい。
                           
今回の「新潮45」は、表向き炎上商法が成功し、儲けたような感じに見えるけれど、この1冊の冊子が払う今後の犠牲はとても大きくなるだろう。それは、これからの時代、すなわち“力の時代の終焉”が見えている人にしかわからない。
見えていたらあんな記事を載せないし、出版しない。
わたしは「新潮社」という出版社をとても愛していて、その近所に住み、帰り道にその前を通る時には、そっとその「新潮社」のロゴに手を重ね、この出版社がわたしの人生を変えてくれたことに感謝している。わたしがこの出版社を通して世に出た時、そこには1つのパワーも圧力もなく、好きなことを好きなように書いて、それが賞を獲り、そのまま本になった。パワーはなかった。そのクリーンなところを愛している。だからこそ今回のことをとても残念に思う。

                           
パリの皮肉新聞社の時もそうだけど「言論の自由」は「相手の気持ち」を踏まえて行われるべきだと思う。
言い分や文章に筋が通ってることや論破することとかどうでもよくてそれらすべて本当に「相手の気持ち」を考えているのかどうか。言葉は刃物なので小説を書いていても刺し違えることはある。特にわたしは私小説作家なのでこれまでもたくさんの人を傷つけ、傷つけたことで返り血も浴びたり、筆をとるのをためらったり、してきた。でも作家たちは出版までに深く思考し少なくとも覚悟を持って刺し違えている。
                           
                           
しかし今回の特集は "現”マイノリティに対しもの申す特集であり(杉田の擁護という体をとって)マイノリティに対する特集なのだから圧倒的に叩く立場が強いわけで、彼らは言葉という刃物を半ば快楽的に使用し声を持たせてもらえない人たちをメッタ刺しにしているようにしか思えない。
言論の自由が「平等」であるなら、弱者と強者の声のバランスを「出版(パブリッシュ)」が保たなくてはならない。
テレビで発言できる人がテレビで発言したら、テレビで発言できない人たちの声を「紙」が掬い取らないといけない。それが公平であり平等であり自由の確保である。
力のある人が言論の自由を振りかざすのは「ハラスメント」であり、「暴力」である。

                         
「力」に守られていると発言や行動に「覚悟」が必要なくなって、思考に奥行きがなくなる。
わたしだって売れっ子作家じゃないからデビュー版元の行いを批判するのは怖い。こんなに長々発言するのも怖い。
新潮社文芸編集部の人たちは内部の人たちだからもっとじゃないかな。けれど、自分に問う。じゃあわたしはなぜ「時雨美人伝」をこの1年連載してきたのか。今よりもっと差別が強く、社会がヒエラルキーそのものであったような時代に、声を持たない人たちの代わりに雑誌を作り刊行した人の生き様とそのSoul(魂)を追いかけ神楽坂に越してきて、彼女の伝記を書いているわたしが「今後新潮社から仕事がもらえないかもしれない」ということを気にして、口があり筆があるのに、無言を貫いていくのか。わたしの本を世に出してくれた文芸編集部の人たちが、会社に切られるかもしれないリスクの中、戦っているのに。そう思い、筆をとることにした。
                           
同時にこれは新潮社との戦いではなくて「力(パワー)」との戦いである。「力(パワー)」は色んなものに憑依する。だからその憑依先(この場合新潮社)を叩いても意味がない。だからこそ「新潮45」を読む必要はないし、文脈に対して論ずる必要もない。
                           
全ては生きとし生きる「人間」が、その人の大切にしているものたちを是とされ、その人の生きたいと思う人生を高らかに歩んでいけるそのための戦いである。
                           
駅でトイレに行きたくなった時に、赤と青の狭間で毎回悩んで傷ついたりしなくていいように。仕事を失わないために口をつぐんだり、良心に反することに加担したりしなくていいように。

                                    
私たちは「力」に守られていない代わりに「覚悟」がある。
                                    
              ー2018.9.22  中島桃果子ー

長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!