月モカ_181217_0104

月曜モカ子の私的モチーフvol.194「フランチャイ子ちゃん」

おそらくこの女の子は、フランチャイ子ちゃんなのだと思うし、フランチャイ子ちゃんが浮かない顔をしているのは、社会と折り合いがつかない彼女のペット(おそらく背後に立っているアレ)のことなのだと思うし、
あのペットは大きくなりすぎただけでなく、ペットの食源についてなど、いろいろ複雑な事情があるように見受けられるのだが、今日はフランチャイ子ちゃんについて掘り下げるのはやめておこう。

                          
というのも、先週突然、ポッペンバッザーク女王が現れ、今日フランチャイ子ちゃんが登場し、月モカはエッセイというより、どこに走っていくか分からないファンタジー小説の連載場所になりそうな気配があるのだけど、
わたしは読み手でもあるのでわかるのだが、物語は読みたい時に読みたい。
こう、グッと物語世界に入っていく元気はないけど、なんか読みたい、電車の乗り換えで時間が余ったり、待ち合わせに相手が大きく遅れてくる時間潰しなどに、というような場合、わたしだったら、どうでもいいようなことをつらつら書いているエッセイ、でもわりと「あるある」なエッセイとかが読みたいからである。月モカの読者のじかの声でも移動時とか、ちょっと暇ができた時にさっと読んでる、みたいなのを聞くし、こう、毎回読まなくてもいい気軽さなんかもいいと思うので今日はエッセイを、どうでもいいようなことを書く。どうでもいいけどポッペンバッザーク女王と無関係でもない話。

                          
昔から無意識に書いたこと、というのが自分の人生に大きく影響するということが結構あって、それはスピリ的なものというより、人間が一番理解しているようでしていないのが実は自身のことであって、わたしの認識よりも、指先から放たれる物語の方がきっと自覚的に先を歩いているだけのことだと思う。
ともあれ、先週の月曜日、ポッペンバッザーク女王の物語を書いた時は、そうなるとも思ってもなかった決断を先週行い、わたしの人生は転機を迎えた。
もしも自分で書いたあの物語が正しければ、何かを手放すことで何かを掴み、世界は(わたしの場合、わたしの人生としよう)劇的に良く変化するはずであるけど、それはまだ、やってみないと分からない。ポッペンバッザーク女王の物語ですら30年経ってそれを確認しているとすると、その確認にはこちらも時間を要するだろう。

                          
そしてわたしが書きたい「どうでもいいこと」は、そういう時わたしはいつもJUDY AND MARYとかCharaの初期のアルバムを聴く、ということである。
                          
いつもそこへ帰る、というのは不思議なことだなと思う。
年とともに好みや感受性は変化するし、例えば20代前半にあんなに聴いていたaikoとかは最近はもう聴かないし、JUDY AND MARYがあんなに好きだったのに、YUKIを聴き込んでいるかというとそうじゃない。実は大ファンを公言しているTHE YELLOW MONKYに関してはわたしは、ど真ん中の世代なのに実は後追いで彼らの曲を回顧的には聴いていない。毛皮のマリーズはちょっとショックなことがあってから聴けなくなってしまった。
                          
わたしには座右の銘があってそれは「Something happen, Change something(何かが起これば何かが変わる)」というものなのだけど、この言葉をきっと生涯座右の銘にするのはわたしにとっていつもこの言葉が新しいからだ。
この言葉の奥深さや意味というものが常に何かの転機で更新されて、本当にそうだなと思う。
同じ理屈でわたしは生涯の名盤をアラニスモリセットの「Jagged little pill」というアルバムとしている。アラニスが若干20歳くらいで作ったアルバムだけどこれも古びていくことはない。

                          
それに比べるとJUDY AND MARYというのは時代の寵児となったPOP BANDであるから当然時代とともに古びていくのである。つまり「懐かしい」というものに。それは90年代、という世代や記憶や思い出と強く絡みついて、例えばどれだけ新しくなっても山口智子テレビに出るたび世間からもう古い、時が止まってる、と言われてしまうことと似ている。実は彼女を見るわたしたちのフィルターがいつまでもロンバケで止まっているだけなのに。

けれどもわたしは人生の転機にJUDY AND MARYを聴く。それはきっと東京に出てきたばかりの18歳の一年間に彼らの楽曲が強くリンクしたからじゃないかなと思う。
同じ理由で「スワロウテイル」は特別な映画で、CharaのJunior sweetというアルバムは一度CDが擦り切れて壊れて、2回買った。

                          
東京1年め、親友のちほと新しい街で出会った年。それから10年ほど経ったらジャズシンガーになる彼女はバグダットカフェのサントラとか、スティビーワンダーとか、ビリージョエルとか大人の音楽を当たり前のように毎日聴いていて、ドリカムのことを「あんなのほとんどEarthじゃない」と言っていたけど、わたしはその頃、earth and fireが何かも、ABBAが何かも知らなかった。
ただ、ジュディマリとか、ジュディマリとか、笑、時にドリカムとか、たまにGLAYとか、日本のPOPソングだけを聴いていたわたしは当時音楽を全然知らなかったし、そのちほちゃんが将来は豪華客船の専属シンガーとしてオーストラリアまで船出するなんて思ってもみない時、普通に二人でカラオケに行ったりしていた。(すごい勇気。無知は冒険の友だな)
初めてのカラオケは小平駅のしかもさびれた方の駅から徒歩2分のカラオケだった。わたしはジュディマリを歌って、ちほはCoccoを歌ったように思う。

あれから21年の時が流れた。わたしは39歳でもう大人である。だからJUDY AND MARYの歌詞に胸が押しつぶされたりはしない。
20代なかばから30代にかけて聴き返した時にいつも思っていた、ある種の郷愁というのかな、ジュディマリの歌に出てくるような恋をわたしは一つも経験しなかったし、18歳の頃に憧れた未来の自分(夢も恋も思い切り叶える!みたいなやつかな)はここにはいない、という多少切なく辛くなるような感じも今はない。夢よりも日々が大切だと今は感じているからだ。恋、よりも傍にいることが大切だと。歌の歌詞になるような素敵な恋はしなかったけど、小説になるような恋はした。というか、自分で勝手に小説にした。笑。だからそういうものじゃないかなとわかってきた。自分に起きていることは劇的に見えないけど、誰かから見たらそれは物語になっている。
つまりわたしは、もう大人で、いろんなことに冷静に対応ができる。

それでも人生の転機にはJUDY AND MARYを聴く。
歌詞はほとんど全部覚えていて、今の自分にひどく不似合いな、フィットしない歌詞を口ずさむ。
“小さな頃から 叱られた夜は いつも聴こえてきてた あの小さなじゅもん” 
“いつまでバカな夢をみているの〜? ママはヒステリックにいうけど〜“
”あたしのボディはまるでバーチャルファイターなZone2 ! “


もうママは39歳の娘にバカな夢を見ていると注意しないし、笑、あたしのボディは今は健康だけを強く望んでいる、ゾーンK(健康)で、
世界の狭間にも落ちなくなった。
だけどそれでも何かがそこにあるのだろう、
それをまた聴きたいと思うのには。
                          
懐かしいという意味で古びていくサウンドや歌詞、自分にとって「今」であり「永遠」だったモンスターバンドが、今の若い子には「知らない」バンドになっていく、同時にその思い出とともに自分も少しづつ昔は若かった人になっていく(えっと今18歳を基準に置いて“若さ”を考えています、全体じゃない)
そんな中でも古びないと思う歌詞が一つある。
                          
“目指す場所はいつも変わるけれど 信じてるものはいつも変わらない”

                       (イラスト=Mihokingo)

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