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『Embrya』再訪

「過去に例がなく、90年代にしか存在し得なかったような」

 見出しは鈴木哲章による音楽評論サイト「Rhythm Nation」のMaxwell『Embrya』評の一節からの引用だ。
90年代リバイバルと言われ始め、10年ほど経過しただろうか。Y2Kブームが勢いづく中、一つのスタイルとして落ち着いた感もある90'sだが、依然として存在感を保ち続けているように思う。ブーン・バップ、グランジ、90's R&B、ブリット・ポップにアシッド・ジャズ。胸が躍る。New JeansやFLOのひな型としてTLCが注目される、そんな時代。しかし自分が今の気分で90年代の作品を1枚だけ挙げろと言われれば、かなり迷った末にMaxwellの2ndアルバム『Embrya』を挙げるかもしれない。

『Embrya』のサウンド

 今やレジェンド扱いされるニューヨーク出身のR&BシンガーであるMaxwellは、滑らかかつスリリングなファルセットを武器に、そのヴォーカルだけで聴くものを魅了してしまう力量を備えていて、つまり伝統的なソウル・シンガーとして捉えることも可能なのだが、彼のアーティスト性はそれほどストレートなものでも無い。例えば『Embrya』収録の「GRAVITY : PUSHING TO PULL」は象徴的。

スロウなダンスホール・レゲエ風のトラック。ストリングスとハープは優美で、しかし歪んだギターが挿入される。ヴォーカルはアンビエントとしての役割を全うするかのように彷徨うが、肉感的なニュアンスも十二分に備えている。ディティールを羅列するとかなりチグハグな印象ながら、総体としては驚くほどの滑らかさが徹底されている。
1曲目の「Everwanting : To Want You to Want」から、アルバム全体の音楽的な基盤はファンクだが、断片的なサウンドの配置と空間を感じさせる音色及びミックスによってそれほどファンキーと感じさせない。「Gravity」のようなカリブ海由来のトラックであっても、直輸入というよりはチルドされ、UKを経由した風合いがあり、むしろ同時代のトリップ・ホップとの共振を感じさせる。このあたりはSadeのStuart Matthewmanプロデュースということも影響していそうだ。

エクレクティックなR&B

Maxwellはデビュー時から「ここではないどこか」を拠り所とした風情があった。カリブ海移民の息子であり、名作デビューアルバムのプロデューサーはUKより、Stuart Matthewmanを招集。ヒップホップと交わることは無くクワイエット・ストームそのものの作風ながら、アート・ロック的なテイストへの愛着を隠さず、ベクトルはレトロには向かっていなかった。往年のソウルマンのようにむき出しの声で情熱を訴えかけるのではなく、ベールがかかったような歌い方でヴァーチャルな妄想を搔き立てた。
R&B史に残る名作『Maxwell's Urban Hang Suite』に比べると、このエクレクティックな2ndアルバムは、キャッチーなフックに欠けサウンドの焦点がどこにあるのか分かりづらくいため見過ごされてきた作品だ。しかしディティールのユニークさを視野に入れつつ、その死ぬほど滑らかなサウンドは無類に魅惑的で、ここに身を浸すことができればこれ以上のものは無いというように感じることができる。

90年代オルタナR&B

 R&Bとして明確にオルタナティヴを模索した『Embrya』はしかし、2010年代以降一大潮流となったオルタナティヴR&Bとは感触が異なる。例えば2022年に傑作『Angels & Queens』を上梓したモダン・ソウル・バンドのGabrielsであれば、優美な下地に対しあるパート、例えばスネアが極端に強調されるといったミキシングを採用しているが、『Embrya』はまるで角の無いサウンドだ。

James BlakeからFrank Ocean、更にKanye Westまで含めたオルタナティヴなR&Bやヒップホップは、ビート・メイク的発想のギミックを持ち込むことでその音楽を際立たせてきた所がある。『Embrya』はヒップ・ホップの代わりに70年代のファンク、UKのクラブ・ミュージック、アート・ロック的な意匠でトーン&マナーを構築している。もはやヒップ・ホップが参照点として絶対の地位を確立した00年代以降に比べて、90年代はヒップ・ホップを迂回する余地が残されていた。またインディ・ロックとR&Bとの距離感がカジュアルになったのが10年代だったが、90年代にアート・ロックに接近するというのは、もう少し勇気の要る態度だっただろう。
『Embrya』は90年代R&B的に対して距離を取り、そして代わりに選択したサウンドによって寧ろ90年代性が刻まれたアルバムだ。98年当時アメリカのR&Bにはフォーミュラとしてのオルタナティヴは確立しておらず、そのジャンル・ベンディングの手つきは自己流で慎重なところがあるが、独特なサウンドの中瑞々しいグルーヴが持続する美しいアルバムだ。まだR&Bにおいてヴァーチャルであることが異端だった90年代。そこには秘め事めいた雰囲気がある。

リバイバルに疲れたあなたに 

 ブーン・バップ、グランジ、90's R&B、ブリット・ポップにアシッド・ジャズ。どれも美味しいサウンドであることに間違いはない。Bruno Marsの『24 Karat Magic』を聴けば否応なしに盛り上がってしまう。でも、もし飽くなきリバイバル合戦に疲れたならば、少し『Embrya』に寄り道してみてもいい。ここには手つかずの90年代がある。


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