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供給力とはなんだろうか

供給力。

この言葉って積極財政派の人たちに限らず、経済の議論のなかによく出てきますよね。

積極財政派の人たちが言うのは

政府には貨幣的制約はない。供給力や生産力がリミットなんだ

これが多い印象ですね。

で、この供給力というのは、いろいろな要素から成り立っていると思いますが、今回はシンプルに考えてみます。

例えば、100人しかいない世界があるとします。

この100人分の生活必需品(食料、衣料、住宅、薬などなど)や生命を維持するためのサービス(医療など)を生産するのに100人を必要としているならば、その世界は生活必需品以外のものを生産する余剰はないですよね。

ところがこれらを50人で生産できるとすると、残りの50人は生活必需品以外のモノやサービスを生産、提供することができます。

例えば、教育、エステサロンなどの美容、テレビゲームなどの娯楽、音楽家、演劇、映画、デザイナーなどなどです。

ちなみに計算してみたのですが、自分が勤めている会社は従業員1人当たり56人分(だいたいですけど)の生活必需品を生産していることになりました。(これが多いか少ないかはわからないけど)

経済学者のスティグリッツはこう言います。

かつての労働者は一日分の生活必需品を買うのに必要な所得を得るために丸一日労働することを必要とした。しかし、今では数時間の労働でそれが可能になった。

何で可能になったかというと、かつての社会より生産性(一人当たりが生産できるモノやサービスの量)が上がったからなんですね。

なんで生産性が爆上がりしたのかというと、凄いイノベーション(技術革新)があったからなんですね。

とにかくまあ、生産力が上がると、より豊かな生活が可能になるんです。(生産性を上げるにはイノベーションが必要。)

だから、国の富とは、貨幣ではなく、生産力であるというのは正しいっちゃ正しいんですね。

ただ、これだけ豊かな社会なのに、ホームレスの人たちがいますよね。

今日食べるものに困る人たちがいます。実際、自分もそういう人に出会ったことがあります。

そんななか、毎日大量の食料品の廃棄が出ています。

つまり、現代社会において一般的に流通している食料品とは、おなかがすいている人に食べてもらうために作られているわけではないんですね。

じゃあ、何のためかというと所得を得るために作られているんですよ。(もちろん、農家さんがあまった野菜を自分の家で食べたり、ホームレスの方たちへの炊き出しといった慈善活動など例外はたくさんあります)

もっというと、食料品を買えるだけの所得を持っている人たちに買ってもらい、その人たちから所得を得るために作られているんです。

で、この食料品を買えるだけの所得というのはさっき言ったように数時間ほどの労働をすれば手に入るんですね。

けれど、それすら手に入れることができない人たちがいる。

これって社会のシステムの欠陥なんですよ。

で、これって決して他人事でなくて、いつ自分に降りかかるやもしれないことですよね。

100人の世界に戻ります。

この世界では50人で100人分の生活に必要なモノやサービスを生産できています。残りの50人でより生活を豊かにするためのモノやサービスを生産しています。

しかし、その世界ではそのモノやサービスはクーポンとしか交換できません。

このクーポンの50%を10人で独占していたらどうなるでしょうか。

残りの50%を90人で分け合わなければなりません。

その90人の中でもクーポンの奪い合いがおきるでしょう。

結果として、まったくクーポンを手にすることができない人も出てくるかもしれません。

生産量がどれだけあっても、クーポン、つまり所得の配分がおかしいと生産力という富の恩恵を受けることはできないというわけです。

これが格差、または不平等とよばれているものですね。

そして、この格差の頂点にはジェフベゾスらがいて、最底辺にはホームレスの人たちがいるのです。

例えば、100人の世界が100人で90人分の生活必需品しか作ることが出来ない生産力しかないのであれば、某メンタリストが言ったようなこともあるかも知れません。(とはいえ、本当は90人分の生活必需品しか作れないのであれば、それを100人で分け合うべきだけれど、ま、実際の世界は充分な生産力があるわけで、ただただ道徳の授業みたいになっちゃうよね)


しかし、毎日とんでもなく大量の食料品廃棄が誰も買わなかったからという理由で出ているんです。
同じように衣料品の廃棄もとんでもありませんし、ドラッグストアには棚を常に満杯にするだけの薬のストックがあります。

つまり、我々が生きている社会は100人で5000人〜10000人分以上の生活必需品を生産できている社会です。
有り余る生産力、つまり富を有しているんです。
そんな世界で、ホームレスの人たちや生活保護の人たち、または何らかの理由により働けない人たちは死ぬべきなのでしょうか?
彼らが働けないのは、彼らだけの責任なのでしょうか。

つまり、ホームレスの人たち、または社会から弾き出されてしまった人たちを生産性を理由に切り捨てるような社会においては、供給力がどれだけあっても、不十分ということなんですね。
充分な供給力と人間愛に根ざした社会のシステム、この両方が必要というわけです。

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