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『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』感想

米原万里著『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読みました。

1960年代、プラハのソビエト学校で様々な経歴の友達に囲まれて過ごしたマリが、日本へ帰国後90年代になってから3人の友人たちを訪ねる3本のノンフィクション。でも、そうと認識していないと小説かと錯覚するほど、語り口は小説的です。

まずソビエト学校での国際色豊かな級友たちの思い出がそれぞれに展開されていき、どんな子でどんな家庭に育って、どんなことを夢見ていたかなんて話が続きます。おしなべてマリの級友たちは全員が裕福な家庭の育ちであったようでした。(そのなかでもアーニャは別格ですが)

中欧の学校では周辺の様々な国の出身者が在籍しているのって当たり前の光景なのかもしれないですが(戦争のために亡命したり移住してきた家庭が多いようでした)、日本人のマリはそのなかでもそこそこ珍しかったかもしれません。

ところで、本文のなかに「われわれ日本人は、どちらかというと、ヨーロッパ人の描くトルコ観とトルコ人像を受けついてしまっているため、理不尽なほど残酷で非寛容なイメージがある」との記述がありましたが、今日に至るまで私個人は学校でもどこでもオスマン・トルコ帝国は他宗教にも異民族にも比較的寛容で、カトリックや20世紀の社会主義国家のほうが非寛容で残忍であったという話しか聞いたことがないので、筆者と教育を受けた年代が違うとそんなところにも差異が出るんだなと新鮮に感じました。

ヤースナが絵が好きで、ホクサイのことを神様って言ってくれていたのはやっぱり嬉しかったです。ホクサイの絵はがきなんて日本では簡単に手に入るけど、それを宝物のように感じてくれるヤースナの感性が愛おしく感じられました。わかるよ。私も自分の好きな作家さんのことを神様だと思っているから。それは単なるネットスラングとしての神ではなくて、私の信念、私の価値観、私の倫理などを規定したものは、やっぱりそれらの作品群だと思うからです。だからこそ、私はそれに関わることを仕事にしているし、それについて考えない日もないと思うからです。

さて、20世紀後半、冷戦が過熱する社会秩序のなかで、日本は高度経済成長期に入り、社会主義国家への防波堤として期待されアメリカ側の拠点として重要視される一方で平和を謳歌していたわけですが、ソ連と西欧のはざまで陸続きでもあった中欧においてはそうもいかなかった。

90年台になってから友人たちの足跡をたずねたとき、その影響がそれぞれの人生に確かに刻まれていて民族とか思想といったものは人を彩ることもあれば柵にもなり得るということを、まざまざと感じました。もし私が東京の街を空爆されるようなことがあって、たとえばオーストラリアに逃げなきゃいけない事態になっていたらどう思っていたかな。帰りたいって思うのかな。それとも英語をすっかり覚えて楽しくやっているだろうか。でもきっと、そこに今みたいなアニメや漫画はないですよね。それを思うと、やっぱり恋しくて泣いちゃうかもしれない。



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