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The Monkeesを再評価する - Part 1:デビュー前の背景

モンキーズは1966年にデビューするのだが、話は1962年から始めたい。

若く野心的でトンガっていた映画製作者ボブ・ラフェルソンは、1962年頃にモンキーズのテレビ番組の青写真的なアイデアを既に持っていたと言われている。どういう青写真だったかは定かでないが、ユニバーサル・ピクチャーズ傘下のRevueというテレビ部門にアイデアを売ろうとして失敗しているという話がある。

2年後の1964年、コロンビア・ピクチャーズ傘下のテレビ番組制作会社であるスクリーン・ジェムスで働いていたラフェルソンは、ビートルズの映画ア・ハード・デイズ・ナイトにインスパイヤされ、同社のバート・シュナイダーという製作者と組んで、この映画のアメリカ版テレビ番組を作ることにした。2人はRaybert Productionsという制作会社を設立する。


さて、1962年から1964年はアメリカにおいてどういう時代だったか。これはモンキーズを理解するために必要不可欠な予備知識である。


1962年はブリル・ビルディング・サウンドの最盛期である。ブリル・ビルディングというのはニューヨークはマンハッタンにあるビルの名前で、多くの音楽出版会社がここにオフィスを構えていた。職業作家が作詞作曲した数多くのポップソングがこのビルから出版され、スタジオミュージシャンによりレコーディングされ、出来上がったオケに売り出す歌手が歌をレコーディングし、シングルとしてリリースされ、ヒット曲を量産した。

代表的な曲は、例えば、リトル・エヴァのロコモーション、ロネッツのビー・マイ・ベイビー、など。
これらを作詞作曲していた代表格は、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、ニール・セダカ、ニール・ダイヤモンドなど。
プロデューサーの代表格はフィル・スペクター、ドン・カーシュナー、など。
そしてスタジオミュージシャンの代表格は、いわゆるレッキング・クルーと呼ばれたロサンゼルスの職業演奏家達だ。

尚、ドン・カーシュナーは今後モンキーズ史において「古い音楽産業の象徴的存在」として非常に重要な人物となるので、是非ここで覚えておいて欲しい。


話を戻すと、つまり、1962年はこのように、楽曲をコンセプトから考え制作するまで完全に取り仕切るプロデューサー、作詞作曲者、バッキングの演奏家、歌手、これらが完全分業化しており、ビジネスのためにヒット曲を「生産」するのがアメリカ軽音楽界の産業形態なのであった。これは「当たり前」であり「デフォルト」なのである。
歌手は消費財であり、曲さえしっかりしていれば歌手はぶっちゃっけ誰でも良かった。特にドン・カーシュナーにとっては。


これはある意味、現在でも脈々と続いているプロダクション産業である。
現在でもあるのだから、1964年にラフェルソンとシュナイダーがビートルズの映画のアメリカ版テレビ番組を「生産」しようと思うのもとても自然なことだった。
ハリウッドもブリル・ビルディングも、1964年にアメリカ上陸したビートルズが一体何を意味するのか全く分かっていなかった。つまり、これからせいぜい3年の内に、バンドが自分で作詞作曲し自分で演奏し自分で売る曲を決めることが本物のミュージシャンとしてリスナーが認知し、1962年のような「生産」される操り人形のバンドは本物のミュージシャンではないと思われてしまうようになってしまうことを、彼らは全く感知していなかった。


これは無理もないことである。例えば、バーズは1964年にデビューしミスター・タンブリンマンをリリースしているが、この曲の演奏はレッキング・クルーである。
ビーチ・ボーイズもレッキング・クルーを使うようになる。
バンドとして売り出していてもプロダクションとしてスタジオミュージシャンを使い自作自演のフリをすることはゆるくアリだったのである。


さて、この「当たり前」の「デフォルト」方式で、ラフェルソンとシュナイダーは、テレビ番組でバンドとして振る舞う役者兼歌手を考えた。
当初彼らは、当時ほぼ知られていなかったニューヨークのフォークロックグループ、ラヴィン・スプーンフルをキャスティングしようとする。しかし、既にバンドはレコード契約を結んでおり、スクリーン・ジェムズは曲を販売する権利を得られなかったため、このアイデアは断念された。


1964年9月、イギリス人のミュージカル俳優デイビー・ジョーンズは、アメリカでスクリーン・ジェムスのTV番組に出演し、その後コロンビア・ピクチャーズの長編映画とColpixレーベルの楽曲をレコーディングする長期契約にサインした。

そして翌1965年7月頃に、デイビーはラフェルソンとシュナイダーのテレビ番組のアイデアに起用されるべくアメリカに呼ばれたという話がある。デイビーはこの後行われるオーディションとは別枠で、当初からラフェルソンとシュナイダーの念頭にあったと言われている。


そして、ラフェルソンとシュナイダーは、残りのメンバー、というかキャストを、オーディションで募って決めることにした。

1965年9月、彼らは Daily VarietyとThe Hollywood Reporterという2つの雑誌に、テレビ番組でバンドを「演じる」若者を募るオーディションの広告を掲載したのであった。


続く。

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