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『絶え果つ花の都より』が「伝達」するものとは。

○初めに

こちらの文章は、GITADORAに収録されている楽曲『絶え果つ花の都より』について考察した文章となっている。

今回の投稿は、「沖縄戦」を主に考察へ取り入れた文章となっているため、内容は非常に重く、特に「戦争」に纏わる情報が苦手な方にはメンタルに悪影響を及ぼす可能性がある。

曲の本質を語る上で、私個人としてはどうしても外す事ができなかった戦争についての表現も文章には含まれている。

そういったものが苦手な方は、どうか閲覧を控えていただく事をお勧めする。


ただ、この文章の結論だけを先に述べるとすれば、それは「犠牲者への祈り」である。

もしよろしければ、この文章を通して『絶え果つ花の都より』を様々な人にも考察してもらい、そして共に語りたいと願っている。
また、この素晴らしい曲が様々な人にも知れ渡って欲しいと思う次第だ。


お付き合いいただければ幸いである。






○考察投稿理由について

私は、Akhuta氏が好きだ。

Akhuta氏は、KONAMIの音楽ゲーム(BEMANIシリーズ)で活躍していた、私の大好きなアーティストである。今現在はすでにKONAMIを退職しており、2年ほど前に気狂いしたかのような湿度の高い感情をnoteに残したことがある。
(わからない方に向けてお伝えしておくが、こちらの記事は「HELLSING」という漫画の一シーンをもじった文章である事をご理解されたい)

さて、リンク先記事の最後に記載している『絶え果つ花の都より』に関しては、個人的にAkhuta氏の作曲の中でも非常に思い入れの強い曲となっている。
この『絶え果つ花の都より』とは、2017年9月6日より稼働を開始した「GITADORA Matixx」に収録された曲である。

私は一目見て聴いただけで、この曲の雰囲気、歌詞、ジャケット等、それらの要素全てにただならぬ「何か」を感じた。おそらく、あれをイメージしているのだろう。あれを題材としているのだろう。そう感じた。
ただ、この曲が持つ意味をしっかりと解釈して表面化をするには、生半可な覚悟では済まされないとも私は考えていた。

理由は単純である。「重い」からだ。

私ごときがこの曲を語ってはならない。どこかでそういった枷が心に掛かっていたように思う。だからこの曲に対する感情や考察は、自身の中だけに閉じ込めておこうと、そう決めていた。

そんなある日、とある曲についての考察をまとめている際に、どうしてもNHKオンデマンドでの動画視聴が必要となった。
そして、色々と動画視聴をしている内にふと目に入ったのは「沖縄戦」についての特集だった。その映像は、当事者による証言をイメージとして再現したものだったり、実際の映像記録にナレーションをつけたようなものになっていた。

壮絶だった。

ただただ、壮絶だった。

地獄というものを具現化するのなら、それは「沖縄戦」を指すのだろうと感じるほど、その映像達は迫力があり、壮絶だった。そして改めて、私の知る沖縄戦の知識は表面上のものでしかないという事を、動画を通して思い知らされた。

それと同時に、学生の頃に行ったはずの「ひめゆりの塔」とその周辺施設で、こういった内容を深部まで学び取る事ができなかった当時の自分を深く恥じた。

下地になる知識を持たない状態で受け取った情報は、定着する事なくほとんど上滑りしてしまっていたのだ。
そして、どこかでそれを理解していたからこそ『絶え果つ花の都より』を語る事に対し、自分は今までおこがましさを感じていたのだろう。

しかしここで知ってしまった。
「沖縄戦」という苛烈な歴史を。
「ひめゆり学徒隊」を始めとした犠牲者の記録を。
『絶え果つ花の都より』にうっすらと抱いていた自身の感情の正体を。

これが、今回の考察文章を投稿するに至った理由である。
自身の感情に整理をつけ、改めてこの曲に向き合い、形として残しておきたい。そして、この曲の存在を「伝達」したい。そう願ったのが理由である。

○曲名について

最初に『絶え果つ花の都より』という曲名について、それの示すものや意図を紐解いていきたい。

まず「絶え果つ」とは、そのまま「絶え果てる」の言い換え的な表現と捉えるのが自然であろう。辞書的には、「すっかり絶える。 すっかりなくなる。」といった意味となる。

蛇足だが、「絶え果つ」の果は「果実」の果と同じ漢字のため、うっかりするとついつい「たえかつ」と呼んでしまいがちである。読み方は「たえはつ」が正当となるので、日本語の難しさには気を付けていきたい。
ちなみに自分は、最初間違えて読んでいた事をここに告白しておく。

次は「花の都」がどこを指しているのかという点である。

日本各地には、「花の都」の愛称がある場所がいくつか存在する。
しかし、この曲はAkhuta氏が自ら「沖縄インスパイア系民謡ロック」という表現をしている以上、沖縄内で「花の都」と呼ばれる場所のことを指している、と考えるのが自然だろう。

しかし、「絶え果つ」というキーワードが前にある事を踏まえるならば、現在は失われてしまっているものであるという前提を踏まえる必要が出てくる。失われてしまった理由は何か?それは当然「沖縄戦」である。

つまり「絶え果つ花の都」とは、「沖縄戦」によって文化を失われてしまった花の都、すなわち戦前の沖縄を指す表現と解釈することが出来る。
転じて『絶え果つ花の都より』とは、当時そこにいた方々からの「沖縄戦」についての出来事を「伝達」する曲である、と解釈した。

では当時の、戦前の沖縄はどのような風景だったのだろう。

さらに深く曲を解釈するにあたって、戦前の「花の都」と呼ばれた沖縄の情景を把握しておきたいと筆者は考えた。ここで、少しだけ沖縄の景観に関する歴史資料を紐解いてみよう。

「沖縄県立博物館・美術館 常設展」サイトより画像引用

沖縄には、「安国山樹花木之記碑(安国山樹華木之記)という重要文化財指定された石碑があるそうだ。これは1427年に首里城近くの安国山に建立された、沖縄が琉球王国だった時代の最古の石碑(金石文)との事である。

そこに記された情報によると、「首里ではマツ・カエデ・カシなど諸国の珍しい樹華を植え、人々の憩いの場として整備をした」という記録があるそうだ。色とりどりの草木が、約600年以上も前から受け継がれてきていたという重要な記録である。

また、他に残っている琉球(那覇)に関する景観の記録としては、1853年頃のペリー琉球来航の手記も挙げられる。あの、黒船のペリーである。
同行通訳者だったウィリアムズという方の記録によると、ペリーは琉球を訪問する都度、首里城までの散策を楽しみ、高台からの展望に感銘していたとの事である。草花の景観に富んだ清潔な琉球を愛していたそうだ。

さらに、民藝運動家の柳宗悦という人は、昭和15(1940)年頃の当時の景観を見た際には「亜熱帯庭園都市」という表現を用いており、暮らしと自然の調和の様に感銘を受けた記録が残っている。

このように、花と緑に溢れた景観が大切にされてきた事を伺わせる記録が、1427年から沖縄戦の始まる直前まで残っているのだ。すなわちこれらは、琉球(那覇)が「花の都」としての側面を古くから持っていた事を意味する。


ちなみに現在の沖縄では、この「花の都」としての側面を復活させようとする動きが実際に出ていることを注記しておく。

「亜熱帯庭園都市」という表現を将来の街づくりに活かしていこうという行政の動きに加え、「花の都」を復活させて後世へと引き継ぎたいと、熱意を持って取り組んでいる方々がいる。

今後の活動に是非ともエールを送りたい。


○ジャケットについて

次は、同曲のジャケットについての考察を進めていく。

・スカートをはいた女性
沖縄戦を理解するうえで、必ずと言っていいほどキーワードとして出てくるのは「ひめゆり学徒隊」という存在である。
女子生徒たちにより構成されているこの学徒隊に纏わる悲劇は、色々な形で後世に語り継がれている。

そして、この曲のジャケットに写るのはスカートをはいた女性たちとなっており、曲名や歌詞の解釈から考えれば、これらはまさに「ひめゆり学徒隊」を抽象的に表現しているのではないかと考えている。


ちなみに、多くの人はきっと「戦争に参加した学徒隊」といえば、ひめゆり学徒隊を思い浮かべるだろう。しかし実際に史実への理解を深めていくと、女子生徒で編成された学徒隊はひめゆり学徒隊以外にも「白梅・ずゐせん・積徳・梯梧・なごらん」等、多数存在する事がわかってくる。

あくまで人数と戦死者の割合が圧倒的に多く、また伝承が多いのが「ひめゆり学徒隊」ということであり、他の学徒隊には全く被害がなかったわけではないという事だけは、念のためここで注釈を加えておきたい。

・花
足元に咲くのは恐らくハイビスカスとなっており、まさに沖縄を象徴する花の一つである。しかしながら、この地面を覆うように咲くハイビスカスには、分かる人には非常に大きな違和感を感じるものとなるだろう。

ハイビスカスは「常緑低木」という種別のものになっており、ようは木に咲く花である。しかしジャケットの花の配置は、咲いているというよりもまるで「手向けられている」ような、摘まれた花が置かれているような配置のようにも感じられる。

沖縄ではハイビスカスを後生花と呼び、亡くなった人達の幸せを願うために墓地に植える習慣もあるという。

・空
曲中の歌詞には、「明けゆく空」という表現がでてくる。これに準えて考察すると、色合いから見ても夜明けの空なのではないかと考えられる。

夜明けの空は澄んでおり、雲一つない。

ひめゆり学徒隊の証言の中には、仲間たちの壮絶な最後を記したものが数々残されている。ここに、その中から一つを紹介したい。

『もう一度、弾の落ちない青空の下で大手を振って歩きたいね』
一人がそう言うと、皆が声を出して泣いた。そして混乱の中、手榴弾で10人が自決し、自動小銃で4人が即死した。

文献資料より引用

まるで、この最後の願いとして口にした言葉を、具現化したような空である。女性たちも、どこか空を見上げるような構図になっているのも印象的だ。

・白い布
これに関しては、多方向からの解釈を行うことが出来るものと私は考えている。そのため大いに議論の余地があると思うが、今回私はこの白い布には3点の解釈を行っている。

まず、布の色である「白」に込められるもの(色彩表現・色彩メタファー)から考えていくと、

・純粋  ・潔白  ・無罪  ・降伏

といった意味を込めた可能性があると考えることが出来る。そしてこれらは、それぞれ全てがひめゆり学徒隊をイメージしているものに当てはめることが可能な要素であると、私は考えている。

また、ひめゆり学徒隊は負傷した兵士の看護を担当していた。その仕事をわかりやすくイメージするために、寝床などに使われていそうなシーツを洗濯して干している、という配置を狙ったのかもしれない。
ただし、史実では「シーツを白く清潔になるまで洗濯し、広いところに干しておく」という行為が出来るような環境とは、まったく程遠い現実があったということを注釈しておく。なので、この白い布が洗濯したシーツという想定なのであれば、「本当はこういうお仕事がしたかった」という無念を表している可能性も、もしかしたらあるのかもしれない。

そして、この布を「ヴェール」や「カーテン」のようなものと捉えるとすれば、「隔たり」「覆い隠す」という暗喩を含めることもできるだろう。
さらに、沖縄の一部では人の死を不浄(シニフジョー)と捉え、通夜の準備を行う際には壁などを白い布で覆う風習があるとの事である。
このスカートをはいた少女たちも、全員がその布の向こう側にいるのが印象的だ。


これらの情報を総合的に捉え、この楽曲のジャケットについては「絶え果てた花の都に佇むひめゆり学徒隊」をイメージしているのではないかと私は考えている。

○歌詞について

・前半

明けゆく空の穏やかに
見下ろすは黙に凪いだ海
星の息吹に抱かれて眠りに就く人よ
揺り籠で安らかに

「明けゆく空」については、先ほども触れたとおり夜明けのイメージとなっている。空がゆっくりと明るくなりはじめ、喧噪とは無縁の「穏やか」な一日の始まりを感じさせる表現である。

そして「見下ろすは黙に凪いだ海」という表現に続いており、総合するとこの人物は、静かな夜明けの海沿いに佇んでいるような様子が伺える。
「黙に凪いだ海」という表現は、まるで沖縄戦当時からすれば信じられないほどに静かな様である、という含みを持たせるかのようである。


場所はどこだろうか。
特定はできないが、この曲のテーマに準えて考えると「ひめゆりの塔」や「沖縄陸軍病院之塔」にほど近い、「喜屋武岬」がそれに該当するのではないかと私は考えている。
ここは「荒崎海岸」を望むことができる場所であり、また岬の先端には慰霊碑の「平和の塔」も建立されている。

「星の息吹に抱かれて眠りに就く人よ 揺り籠で安らかに」
この詞はまさに、哀悼の意の表現に他ならないだろう。誰に対してか、それは他でもなく沖縄戦の犠牲になった方々全員に対してである。

「星の息吹」には恐らく、「大地」や「海」、あるいは「青空」や「星空」までもが含まれているものと考えている。
そういった大きな存在を「揺り籠」に見立て、家族に見守られるように安らかな眠りに就いてほしいと願うような有様は、まさに「犠牲者への祈り」である。
穏やかな夜明けの元、静かな海のそばで、眠りに就く方々へ安寧の祈りを捧げているのである。

なぜ、この人物は祈りを捧げるのだろうか。
この人物は何を知り、何を感じたのだろうか。

それを我々に知らせてくれるかのように、約8秒程度の静寂の後、場面は「沖縄戦当時」の視点へと切り替わっていくことになる。

・中盤①

旅立ちの夜は忽然に
手を引いて雨空の下に
恐れも知らず飛び入るは
思いもよらぬ眼前の慈悲無き世界

「旅立ちの夜は忽然に」
ここからの中心人物が「ひめゆり学徒隊」と仮定すると、この旅立ちの夜とは恐らく1945年3月23日の夜、ひめゆり学徒隊が沖縄陸軍病院へと向かった時の事を指すと思われる。

忽然に旅立ったのは何故なのか。
それは、米軍による沖縄攻略戦の開始が同日3月23日となっており、それに対応する形で突如として沖縄陸軍病院への動員が決められたことによる。

「手を引いて雨空の下に」
すでにこの時、相手艦隊による空襲が始まっている事が記録されている。
また、ある陸軍二等兵の回想によれば、それが「爆弾の雨」であったという表現をされていることから、「雨空」とはつまり空襲を指すものと解釈する。
(注:ちなみに、実際の当時の気象情報は私が調べた限りでは確認できなかった。比喩ではなく実際に雨が降っていた可能性も否定はできない)

当時は引率教員を含めた240人が夜の中を移動したという記録が残っているため、教員たちが手を引いて、空襲が始まっている中で教え子達を誘導していたような様子がここから伺える。

「恐れも知らず飛び入るは
思いもよらぬ眼前の慈悲無き世界」

ここは、移動した先が自分たちでも想像できないような惨状であったということを伝える文章となっている。
ただ、この歌詞に対してはもしかしたら不自然さを感じる人も多いのではないだろうか。そう、どこか緊張感が抜けているのだ。

当時は戦時中で、実際にすでに空襲が始まっており、攻撃が開始されて突然現場へ駆り出されていくという緊急を要する状況なのだ。

恐れを、本当に知らなかったのか。移動先の悲惨さについて、全く思いもよらなかったのか。当時を歴史として振り返る我々からすれば、ついついそう考えてしまいがちだ。

しかし、実際に当時の事を下記のように証言する方がいる。

「戦争というものがどんなに恐ろしいものか、戦場がどんなに厳しいものなのか、全く知らないんです。生徒も教師も」

宮城喜久子さんの証言

ひめゆり学徒隊に所属していた宮城さんによると、動員命令により夜道を行く子供たちは溌剌(はつらつ)とした様子で、声を掛け合いながら、歌を歌いながら沖縄陸軍病院へと向かったという。
また一部の証言からは「任務が終わる頃には、戦争も終わって、お家に帰って、家族へお仕事を報告する事ができると信じていました」と当時の心境を振り返る人もいるほどである。

これは、そこにいる全員がいわゆる正常性バイアスに掛かってしまっている状態だったのだろうと推測している。
この頃の日本がどのような報道を行い、この頃の日本でどのような教育を行っていたのか。そういった当時の背景を顧みれば、その正常性バイアスの異常な度合いというものは想像に難くないだろう。
ましてや、導き手である教師ですらが強い正常性バイアスに掛かっていては、引き連れられる子供達がそれを払しょくすることなど到底不可能である。

国が、環境が、そして現場の異常性が、そういった緊張感を生み出すことを拒んだ。これが「恐れも知らず」「思いもよらぬ」に込められたものであると私は考えている。

そのような心構えのない状態でみた現実は、どのような有様だったのだろう。これについては、目を覆いたくなるほどの苛烈な情報が証言や記録として残っている。

まず、「陸軍病院」と聞いて、通常の人は何を思い浮かべるだろうか。
知らない人のほとんどが、きっと無機質な木造の建物などを想像するのではないだろうか。そして、学徒隊はそこのベットに横たわる兵士たちを甲斐甲斐しく世話をする役割になると、普通なら想像するのではないだろうか。

しかし、実際に病院と呼ばれていた「それ」は、ほとんどが壕である。洞窟である。あるいは、一部の地域などは「墓」を病院代わりに使用していたという箇所すら存在するという。
そういった場所で、粗末に用意された寝床に横たわる負傷兵を相手にする仕事、というのが実情だ。

そしてそこは、一報(軽症)・二報(重症)・三報(危機)・四報(死亡者)というように、運ばれてくる者が常にトリアージされるような環境であったという。
「恐れも知らず」「思いもよらない」ような人間が、そういった環境に身を置くとどうなるだろうか。それは想像に難くない。

多くの学徒が「お国のため」と奮起してきたにも関わらず、現実はその精神すら粉微塵へと変える事となる。

看護現場の惨状の例を挙げればきりがない。

・引率の先生がガスで脳症になる
・手術と称し、腕や足を切るのは日常茶飯事
・その切った腕や足を埋めるのは、学徒の役目
・壕の奥には「放置」されたものが悪臭を放っていた

証言内容より抜粋

これはほんの一例であり、これが「当たり前」の日々なのだ。
その様はまさに地獄絵図であり、誰の目から見てもまさに「慈悲無き世界」であった事は、間違いないだろう。

このように中盤①の歌詞については、元ひめゆり学徒隊の証言内容を表現したものになっていると考察した。

・中盤②

白上げて
赤下げて
雨に体投げて

中盤②の歌詞については、実は正直なところ私の中では確実な結論を見いだせてはいない。なので、仮説として3点を以下に記していきたいと思う。

<仮説:1>
白上げて、赤下げて。こういったキーワードで思い浮かべるのは恐らく「旗」ではないだろうか。

実際に軍で用いられていた通信手段として、手旗信号というものがあるそうだ。これは赤と白の旗を使い、身振り手振りに意味を持たせて相手に情報を伝達する手段として用いるものである。
しかしながら、「白上げて 赤下げて」という動作単体だけでは、それが何を意味するのか察するのは難しい。

この後、「雨に体投げて」という表現に続いている。先ほどの中盤①から察するにここの「雨」も空襲の比喩であると考えられるため、この詞は「空襲の真っ只中、決死の覚悟で手旗信号を行おうとした」描写と捉えることもできる。

不確定なのは、その手旗信号は誰が行ったのかという点である。少なくとも学徒隊が手旗信号を習得していたという記録は、私は確認できなかった。
なので、学徒隊が「そうやって」犠牲になっていく軍人達を見た、という情景を表しているのではと考えるのがこの仮説1である。

私は沖縄戦の真っ最中、陸上で手旗信号が使われていたかという事実までは確認できていない。ただ、沖縄戦に参加した日本兵の中に手旗信号を習得している人がいたという記録は確認している。
もしかしたら、陸軍に従事していた方の手記などをつぶさに確認していけば、そういった情報も見つける事が出来るのかもしれない。

<仮説:2>
次は旗の色と旗の上下に着目をしてみる。

まずは「白上げて」からである。
白という色に込められている色彩表現、色彩メタファーはジャケットの考察でも述べたとおりである。また、白旗を上げるという意味から「降伏」の意味があると捉えるのがここは自然だろう。

次は「赤下げて」である。
赤という色の色彩表現、色彩メタファーは

・危険 ・注意警告

といった意味が備わる。
これが転じて、赤を下げるという意図には「私に危険はありません」というニュアンスを暗喩として含めることも可能ではないかと考える。

これを併せれば、「降伏します、私に危険はありません」となる。
そのうえで「雨に体投げて」と続くことを考えれば、これは意を決して投降しようとしている表現とも考えることができるのではないだろうか。

あるいは、もう一つの赤に備わる色彩メタファーの

・情熱

といった意味の可能性も考えられる。
「お国のために役立つんだ」と意気込んできた学徒隊は、確かに情熱を持って任務に就こうとしたはずだ。しかし、移動先の「慈悲無き世界」を目の当たりにし、中には壕を飛び出してしまう人もいたとのことだ。

ともすれば、最初は上げられていたはずの「赤」が下がった、つまり「情熱」が消えてしまったという暗喩を込めている可能性も考えられるかもしれない。
そのうえで「雨に体投げて」という表現に繋げるのであれば、これはこの上ない「失意」の表現であったという可能性も考えられる。

実際に学徒隊が白・赤二つの旗を持っていたという事例は確認できていない為、あくまで学徒隊の心の中を「旗でイメージとして表現した」と考えるのが仮説2は適切と考えている。

<仮説:3>
ここの中盤②でもう一つ注目しておきたい特徴が「歌い方」である。

「白上げて」「赤下げて」の箇所でAkhuta氏は長く長く伸ばすような歌い方をしているが、これについては「慈悲無き世界」に身を置き、3か月という期間を永遠の地獄と感じるような気持ちで過ごしてきた学徒たちの「時間経過」を表現している可能性もあるのかもしれない。

この時間経過の中で、陸軍病院では数多の命が失われている。これは残酷な内容なのであまり進んで取り上げたくはないのだが、兵士や学徒の死因の表現に「白上げて」「赤下げて」を用いているという可能性も、もしかしたらあるのかもしれない。

【患者及び病院の状況】
~中略~
④赤痢患者の発生、北部地区ではマラリアの発生が多く見られた。
~中略~
⑨重症患者は、青酸カリ入りのミルクで兵隊が処理をしていた。

※…参考資料:“沖縄戦”時下における女子学徒隊の行った看護と精神保健(その1)

また、学徒隊の「看護の実際」として行われた内容には、遺体の処理と埋葬も記録として残っている。当時の証言者によると、空襲が絶え間なく続いている中で外に出て遺体を埋めなければならず、常に決死の覚悟が必要な仕事だったという。

「雨に体投げて」には、あるいはそういった意味も備わっているのかもしれない。


<余談>
学徒隊への解散命令が下されたのは同年の6月18日の夜である。調べが足りず正確な気象記録は確認できなかったが、当時のこの時期は梅雨であった可能性も高い。
そのため、ここの「雨」には梅雨の季節であったというダブルミーニングを含ませている可能性があり、沖縄戦の末期であったという時期を「雨」という単語のみで表現していたという可能性も考えられるかもしれない。

この余談をここに記した理由は、後半の最後の歌詞にある。


・後半

行き場を失って
泡となった結末
慕う者の名を呼ぶ声
雨音に呑まれ届かず

繰り返すが、6月18日夜には戦況が絶望的であるとして学徒隊は解散命令を下されており、それと同時に行き場を失う事態に陥っている。何故ならこの解散命令とは「もう家に帰ってもよろしい」という生易しい話ではないからである。

戦争はまだ続いており、しかしエスコート役となるような兵士は当然おらず、学徒隊の住んでいた場所や家族の安否などの情報は当然、一切ない状況だ。
このような状態で、解散するから自由にしろと言っているのだ。彼女達からすればこの解散命令は、実質的には見捨てられるような宣言に他ならなかったのだ。

そのため、「行き場を失って泡となった結末」という部分には、「逃げ場を失い犠牲となった方々」を示すニュアンスを感じられる。
そして泡とは、かくも崩れやすく、儚いイメージを想定させる。それを踏まえると「抵抗もなく、さも当たり前の如くに消えてしまった」という印象を乗せているものと思われる。

また、泡が消える際に使われる表現は、「弾ける」であったり、「破裂」という内容になる。また、「行き場を失って」行き着いた先が海岸であったという話も、非常に多い。
末期の事情を紐解いて理解していくと、ここで「泡」という表現を用いた理由もまた、見えてくるだろう。現実は、どこまでも心苦しくなるほどに残酷だったのだ。

もはやこの頃には、学徒隊・兵士・住民などの身分に関係なく、慕う相手を目の前で失う事すらが当たり前となっていた。なりふり構わずに「雨」が降る中で相手の名を呼んでみても、それが「届く」事がなかったのだ。

あまりにも悲しすぎる。
あまりにも重すぎる。
あまりにも救いがなさすぎる。
地獄を生き残った方々からの証言は、そういったエピソードが必ずといっていいほど出てくる。

短い詞ではあるが、総合すると後半の歌詞はまさに沖縄戦による結末を辿った方々の様子を表しているといえる。
この後半部分をAkhuta氏は、犠牲者らの叫びと無念を歌うような、憑依にも近い高音表現を用いているのも特徴的である。

そして以上が、冒頭の人物が安らかに眠りに就いてほしいと祈った相手、
「絶え果つ花の都にいた方々」のお話である。

○その他の要素について


・楽曲の特色と譜面の特色
私が特に心を置いているのは、「音」と「譜面」だ。
この曲は表題・ジャケット・歌詞だけではなく、「音」や「譜面」にも工夫がされていると感じてならない。

そしてその特色は、特に前半にこそ込められていると私は思う。
そこで改めてもう一度、前半部分をピックアップしてみよう。

明けゆく空の穏やかに
見下ろすは黙に凪いだ海
星の息吹に抱かれて眠りに就く人よ
揺り籠で安らかに

まず「音」。

この部分は、まるで経を読み上げるような歌い方であると私は感じた。
低く、低く、躍動感を抑え、念じるかように。
慎重に、慎重に、丁寧に、歌詞に言霊を乗せるかのように。
そのように感じた。

それはまるで、
「この場所で安らかに眠る貴方がたの事を、これから歌わせて頂きます」と唱えるかのようで、敬意のような、許諾を得るかのような、哀悼の意を捧げるかのようなものを感じさせる。

静かな夜明けの海に佇む人物は、実はAkhuta氏自身だったのではないかと思わずにはいられない。

そして「譜面」。

「揺り籠で安らかに」と歌われた後、中盤に入るまでの約8秒間のノーツ数は、Guitar・Base・Drum全パートを合わせても多くて5ノーツ程度である。Akhuta氏の作曲で、プレイヤーにここまで長い間を持たせる曲は非常に珍しいといえる。

そのため、中盤に差し掛かるまでのこの猶予期間だけは、この約8秒間の間だけは、まるで黙祷にも似た静寂を伴う祈りを表現しているようにも感じる。

あるいは、この後に語られる凄惨な事実を受け入れる為に用意された間なのかも知れない。心を静かにし、雑念を抑え、曲に向き合うために用意された、そんな時間なのかもしれない。

つい、思いを馳せてしまう。
Akhuta氏自身はここの間に、
何を込めたのだろうか、と。

・デフォルト曲としての収録

GITADORAにおけるAkhuta氏の書き下ろし曲は、基本的にイベントによる解禁であったりアンコール曲としての収録をされるケースが殆どであるという印象だった。
しかしGITADORA Matixxに収録されたこの曲は、Akhuta氏には珍しく解禁を伴わないデフォルト曲としてプレイできる楽曲となっていた。

もしかしたらこれは、Akhuta氏やスタッフ達の意向もあったのではないだろうか。誰でもこの曲に触れられるように、いつからでもこの曲に触れられるように、と。

ちなみに、なんの因果なのかはわからないがGITADORA Matixxの稼働日であった9月6日の翌日、9月7日は沖縄守備軍の降伏調印式が行われた歴史上の沖縄戦終結の日となっている。
もちろん、これは単なる偶然であることは間違いないだろう。

この曲には、本当に色々と考えさせられる。

○補足:「伝達」について

筆者は、『絶え果つ花の都より』の背景をより理解するため、沖縄戦に関する資料に目を通していた。
その中で、非常に印象的な言葉があったのでここに紹介する。

「死を賛美しすぎ、死が一切を美しく解決すると思いこんでいる」

「沖縄決戦 高級参謀の手記」より引用

沖縄戦の中心にいながら、「当時の日本司令部や日本全体の異質さ」を表現した、とある軍人将校のメモに書き記された文章である。

きっとこの言葉は、当時ならマイノリティな意見として封殺されたことであろう。しかしながら、この言葉はどこか、現代を生きる我々にも強く通じるものがあるように私は感じている。

誰かが犠牲になる事を美徳とする精神そのものは、現代こそ見直され改善されてきている。しかし、この精神は「線引き」が非常に難しく、全てを悪としてはバランスが崩れてしまう「むつかしさ」を備えている。
「犠牲」とは?「美徳」とは?そういった根本から見つめなおさなければ、表面的な言葉の意味に踊らされて本質を見失いがちとなってしまう、非常に難しい問題だ。

死を、美徳と捉えるな。

沖縄戦という苛烈な地獄を経験した軍人将校の言葉は、重い。
戦争というものに備わる悪しき本質を鋭く見抜いた当事者の言葉は、あまりにも重い。

この言葉を、そしてこの出来事を、どうにかうまく伝えたい。
そう感じたとしても、出来事を華美に表現しすぎてはエンターテイメント化を批判される恐れもある。
また、伝え方について粗がでるような対応をしてしまっては、本質からずれた議論を巻き起こす恐れもある。

そして、どのように丁寧に伝えようとしても、それでも齟齬が発生するケースもまた存在する。例えば有名な話として「島唄」(THE BOOM)に纏わるエピソードなどが挙げられるだろう。
教訓と歴史の事実があまりにも重すぎて、「伝達」という行為に過敏になってしまう人が出て来るという側面も、きっとあるのかもしれない。

さらに、「当事者」は年々減り続けているという避けられない現実もある。放つ言葉に強い説得力を備える事ができる人、すなわち当時を知る者は、いつかはいなくなってしまうのだ。
また、「当事者」は「被害者」でもある。当時を知りたいからといっても無理に発言を求める事は阻まれる。そういう、心情というものがある。
当時の苛烈さからPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、時が経ってもなおその症状に苦しむ方々も確認されている。また、サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)に悩まされて、当時の出来事を口にする事が出来ない心理状況に陥る方も多かったそうだ。

「伝達」は、難しい。

説得力・影響力・事実性・客観性・理解難易度。
これらのバランスを上手くとって伝達できなければ、せっかく紡がれたものも陳腐化する恐れがある。伝達する側も、伝達される側も、ある程度の練度がどうしても必要になってくるのだ。

さて、それにも関わらず、人間には相反するかのようなある特性がある。
「歴史」は伝えていかなければ風化、あるいは歪曲する。そんな特性だ。

今は、「歴史」を残す事に関する技術はデジタル化も含めて飛躍的に向上した。しかし、それは永遠に形を変えずに残り続けると誰も保証することはできない。

データは、中核を担う誰かが消そうと思えば消せるし、嘘を加えて濁らせることもできる。媒体本体の寿命で消えてしまうリスクに対しても、常に気を配る必要がある。
現物として残る建造物・石碑・書物は、焼失や破損、摩耗、劣化と常に向き合い続ける必要がある。

「歴史」という化け物の本質は、人類には簡単に変えることはできない。
「歴史」を伝えるという行為に、一瞬たりとも安心は存在しない。

だからこそ、「これは残す必要がある」と感じる、第三者の目が必要だ。
その熱量は、歴史をできる限り正確に残そうとする力となり、また悪意ある歪曲を許さないように働く牽制になる。それは、「伝達」のための力となるのだ。

そういった意味でも『絶え果つ花の都より』という曲は、その意味をくみ取り、どこか少しでも心を動かし、ひめゆり学徒隊や沖縄戦に興味を持つ切っ掛けとしては、とても深い意味がある曲だと私は感じている。

Akhuta氏を知り、Akhuta氏の曲を好み、Akhuta氏の意図を汲み取るために楽曲背景に興味を持つ人が、この曲を通じて歴史の一端を理解していこうとする事。それは、きっと先人たちの無念を昇華させる「伝達」への強い力になると私は考えている。

ただ、その興味はきっと、曲の作り手であるアーティスト側から提供されるのではなく、リスナーでありプレイヤーである我々から自発的に持つ事こそが「あるべき姿」なのだと私は感じている。
受動ではなく能動的に、追従ではなく主導的に理解しようとする事こそが、「外界への興味」に対して強い刺激となるからだ。

だからきっと、Akhuta氏がこの曲を「オマツリワッショイしないタイプの沖縄インスパイア系民謡ロック」という表現で紹介しているのは、どこかワザとそういう意図を込めた彼なりの表現だったのかなと邪推している。
無論、これは「BEMANI SUMMER DIARY 2015」での作曲となる『Peragro』という曲との兼ね合いもあっての表現ではあるのだろうが、どこかこう本当に、Akhuta氏らしさがあり素適と感じてしまう表現である。

しかし、しっかりとこの曲を紐解けば、氏が曲に込めた直向さや真面目さというものに気付くことが出来る。

「インスパイア」とは、単語単体であれば「鼓舞」であったり「啓発」であったり「応援」という意味も備わるそうだ。
ともすればこの「インスパイア」という表現からは、Akhuta氏がこの曲に沖縄からの全て、そして沖縄への全てを込めたのではないかとすら考えてしまう。

もちろん、これらの真意はこれからも明らかにならないかも知れない。あくまでここに記した全ては、私の「考察」であり、「感想」だ。

○最後に


この文章の投稿日である本日6月23日は、沖縄県では「慰霊の日」とされている。本日は沖縄戦の犠牲になった方々へ、この文章の投稿を持って祈りを捧げようと思う。

最後に、『絶え果つ花の都より』の歌詞の一部を改めて引用し、結びとする。どうか、犠牲になった方々の魂に、限りない安寧があることを。

星の息吹に抱かれて眠りに就く人よ
揺り籠で安らかに

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