停滞期10年
今現在、ちょびっっっっっと演奏の仕事をいただきつつ、Webライターとして活動しているわたし。
そんなわたしだが、楽器の上達において「停滞期」みたいなのってあったかな……?と思うことがあった。
楽器に限らず、なんでも「停滞期」というのはあるものだ。ある程度伸びたところで、伸び悩んでしまう時期。
正直、わたしはサックスにおいて停滞期というものを感じたことがあまりない。
特別うまい訳でもないのだが、わたしはなぜ停滞期がなかったんだろう……?
高校1年生のころはじまったサックス人生が10年を突破したので、これまでのことを振り返りつつ、いろいろと考えてみたい。
サックスをはじめたのは高校1年生のころ。T-SQUAREがきっかけだった。
小学生のころ、車のコンソールボックスに入っていたF1の写真がプリントされたジャケットのCDを手に取って、T-SQUAREを知る。
当時、友だちの影響でF1が好きだったわたしは、なんとなくTRUTHを知っていた。
それから、エレクトーンでT-SQUAREを弾いてみたり、ギターを弾いてみたりして、どんどんスクエアの魅力に取り憑かれていく。
そして、なんやかんやあって高校生になり、わたしはギターで軽音部に入るか、サックスで吹奏楽部に入るかで迷うことになった。
決め手は、体験入部のときに出してもらったヤナギサワのアルトサックス。A-901という手頃なモデルだったが、ちゃんと手彫り彫刻が入っていた。
初めて生で見たサックス。彫刻がとてもかっこよく見えて、こっちにしよう!!と即決した。
入部してから「これを使ってね」と出てきたのは、彫刻なしのYAMAHA YAS-280。がっかりであった。
そんながっかり体験とともに、わたしは大きな壁にぶつかる。
それまでわたしは「音楽ができる子」だった。エレクトーンを幼稚園のころからやっていたので、音楽は本当に得意だった。
歌はあまり得意でなかったが、それでも音程はとれたし、ピアノもリコーダーもできた。初めて触るドラムや琴も、難なく演奏できた。
しかし、吹奏楽部では違った。わたしは「できない子」になった。
高校生の吹奏楽部には、基本的に中学から吹奏楽をやってきた子が集まる。楽器は吹けて当然だった。
高校からサックスをスタートしたわたしは、まず息がもたない。アンブシュアという口のかたちもよく分からない。
指も、タンギングの仕方もわからない。
さらに、譜面が読めなかった。幼少期から耳コピで全てを解決してきたので、楽譜をちゃんと読めないまま育ってきてしまったのだ。
楽譜が読めず、楽器が吹けず、完璧に「できない子」。これまで「音楽ができる子」として育ったわたしは、そんな状況が許せなかった。
プライドが高く「できない状況」を受け入れられなかったわたしは、とにかく自主練をした。
部活は授業終わりからだったが、朝も昼も練習をして、譜面も読めるようにリズム練習を繰り返した。
結果、4月からサックスをはじめたわたしは、6月頃にはコンクール曲を演奏できるようになり、譜面も読めるようになった。
執念だった。高い高いプライドが役立った。
高校2年生のころには、役職がついた。基礎合奏を指導する係になり、楽器があまり上手でないと格好がつかないため、レッスンに通うようになる。
ここで、はじめて「プロの音」を聴いた。びっくりした。
わたしの吹奏楽部は、30名弱の弱小部活だった。高校スタートのわたしが人気パートのサックスになれたのは、そもそも人員不足だったからだ。
弱小部のなかで役職がつき「どんなもんだい」と鼻高々だったわたしは、完全に井の中の蛙だった。
プロの音は、はてしなく美しい。金色の音がする。
そこからはまた「できない子」だった。まずロングトーンがうまくできない。音色も細い。タンギングが汚い。
表現の幅が狭い。高音域が美しくない。リズムが転ぶ。譜読みが遅くレッスンに間に合わない。
部活はもちろん、移動中も譜面を広げながら、必至に練習した。レッスンについて行くのに必至だった。
大変なレッスンだったが、がむしゃらに頑張ったおかげで、それなりに上手になった。そして、先生からのすすめで音楽大学を受験することになった。
高校の音楽の先生からは「教職をとるといい」と言われ、教育学部と音楽大学で迷ったが「サックスが上手になった」と自信を取り戻していたわたしは、音大へ行き教職もとることに決めた。
音大で通用するだろうと、自分を疑わなかった。
音大には、わたしが高校生時代に「すごいなぁ」と眺めていた強豪校出身の子たちがたくさんいた。
そんな同期と同じ練習室で音を出したとき、自分の音の汚さにびっくりした。
それまで、上手な人と同時に音を出す経験がなかった。先生の音は聴いたことがあったが、同期でサックスが上手な人と演奏をするのは初だった。
入学時、自分は「音がそこそこきれいで上手だ」と思っていたのだが、同期の子と比べるとどうやら底辺らしい。
高校1年のスタート時、レッスン初期、そして音大1年生と3度目の「できない子人生」がスタートした。
これまでの「できない子人生」と違ったのは、楽器が下手だと学生生活を大きく左右するという点だった。
音大は、上手いか下手かの世界。上手ければチャンスがたくさん巡ってくるし、下手なら誰も声をかけない。それだけ。
楽器人生において、初めて「怖いな」と思った。音を出すのがちょっと怖くなった。
しかし、20代そこそこでプライドの高さも最高潮だったわたしは、やっぱり「できない子」であることが許せななかった。
同期にはとても上手な子が多かったが、自分なら越せるとも思った。
卒業するタイミングになって、同期が芸大やら自衛隊やらに進学・就職するのを見て、凄い人達だったんだなと気付く。
鼻をぼっきり折られて、またがむしゃらに練習する。練習室が取れないときは、ひたすら廊下で練習した。
廊下は空調がききにくい。夏は暑く、冬は寒かった。
先生に「俺が学生のころは10時間とか練習して、血染めのリードができたくらいだ」と言われ、朝から晩まで練習した。
8時間を超えたところで、口が閉まらなくなった。
それでも練習した。とにかく練習した。
同期に負けたくなくて、あと先生が怖すぎて。
ちょっぴり、先生に負けたくないのもあった。
音大では、首席にも次席(2位)にもなれなかった。コンクールでも入賞はできなかった。
しかし、どうやら上位組には入れたようだ。最底辺からは脱出できた。
卒業後は音楽関係の会社に就職し、レッスンや楽器販売をした。
ここでジャズを演奏しないといけない事態になり、なんと4度目の「できない子人生」がスタートする。
これまでの「できない子人生」との違いは、お金が発生している点である。
幸い、入社と同時にコロナで店舗が休業になったので、準備する時間はあった。
が、家で吹けないわたしは、そもそもサックスが演奏できない状況になった。
しかし、自粛が永遠に続く訳ではない。レッスンではジャズ・ポップスも扱うので、とにかくジャズを演奏できるようにならないといけない。
ほかの同期より早くジャズマウスピースを買い、リードを買い、譜面を買い、奏法を研究した。
先輩指導者と比べて「ジャズができない子」だったが、そもそもT-SQUAREからサックスに興味をもったわたしは、7年越しにジャズ・フュージョンを勉強できて嬉しかった。
2年して退社するとき、生徒さんから「先生はジャズができるからよかった」と言ってもらえて、とても嬉しかったのを覚えている。
さて、ここまで長々とサックス人生を振り返ってみたが、停滞期がなかったのは単純に「環境のおかげ」だ。
上達するごとに環境が変わり、都度「できない子」に転落し、這い上がることを繰り返してきた。
わたしを「できない子」にしてくれる環境が、わたしを停滞させず成長させてくれたのだ。
そう考えると、これまで出会ってきた人には感謝しかない。
プライドが非常に高かったせいで迷惑をかけることも多かった気がするが、寛大に対応してくれた方々には、感謝の気持ちでいっぱいだ。
これからも、自分自身が上達できるような環境に身を起き続けたい。