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2020年9月座談会御書「三三蔵祈雨事」を学ぶ

 本日の企画では「大白蓮華」9月号から座談会拝読御書「三三蔵祈雨事」を学んでまいります。
 座談会で御書講義を担当する際、皆それぞれ個別に研鑽して発表することがほとんどだと思いますが、事前にメンバ間で議論ができたら、もっと深められると思っていました。「大白蓮華」が届いたタイミングで、できるだけ一緒に学んで、話し合っていきたいと思います。

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〈御文〉
 夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば·たうれず、本より生いて候木なれども根の弱きは·たうれぬ、甲斐無き者なれども·たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには·たうれぬ(御書1468頁1行目~3行目)
〈現代語訳〉
 そもそも、木を植える場合、大風が吹いたとしても、強い支えがあれば倒れない。もともと生えていた木であっても、根の弱いものは倒れてしまう。
 弱く不甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し頑健な者でも、独りであれば悪い道では倒れてしまう。

 拝読御文は「三三蔵祈雨事」の冒頭部分で、「善知識」の大切さを、樹木などに譬えられた有名な御文です。
 本抄は、建治元年(1275年)、または、その翌年に身延で著され、駿河国(静岡県中央部)富士上方西山郷に住む門下·西山入道に与えられたお手紙とされています。

 大聖人が、西山入道に、まず教えられたのが「善知識を求めよ」との一点でした。
 「善知識」とは、人々を善に導き、仏法の正道へと向かわせる「善き友」のことです。
 植えたばかりの木であっても、強い支えがあれば、大風が吹こうと倒れない。旅をするのに険しく悪い道でも、助ける人がいれば倒れてしまうことはない。私たちが仏道をまっすぐに進み、悪道に陥らないための支えが「善知識」です。
 今月発刊された池田先生の書籍『調和と希望の仏法』でも、「広宣流布の組織」の重要性を示す御文として引用されています。

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 大白蓮華9月号では、次のように解説されています。
 『私たちにとっての善知識とは、信心を励ましてくれる師匠や同志、広宣流布の組織にほかなりません。大事なことは、創価学会という「正しい信心の組織」「広宣流布の組織」から絶対に離れないことです。』
 コロナ禍での新しい学会活動が本格的にスタートする9月、この御文が拝読御文に選ばれた理由が分かります。

 池田先生は、組織活動を苦手だと思うメンバのこともよくご存知で、『勝利の経典「御書」に学ぶ』で、次のように励ましてくださっています。

『性格も境遇も異なる同志と共に進むことは、面倒で大変だと思う場面もあるかもしれません。
 特に若い人のなかには、「組織」というものを煩わしく感じ、一人でいるほうが、自由で気楽だと考える人もいるかもしれない。
 今の時代、人と人が直接かかわり合う場面を、できるだけ避けようとする傾向が強いせいもあるでしょう。
 しかし、その風潮が、異なる個性を生かし合い、讃え合う、人間的な度量を鍛える機会を奪っている。そのため他者の痛みが理解できず、自分の怒りをコントロールできず、わずかな気持ちのすれ違いや誤解を修復できず、暴力、孤立、絶望、自死へと追いやったり、追いやられたりしている--この現実を、だれもがなんとかしなければと願っているのではないでしょうか。』
【『勝利の経典「御書」に学ぶ』第15巻「三三蔵祈雨事」】

 そして、自身の人間革命に挑戦し、水の流れるごとき信心を貫くためのその鍛錬の場が創価学会だと述べられています。

 ここまでは、どちらかというと「支えられる側」、樹木の譬えで言えば、自分が「木」の立場での読み方だと言えます。
 次に、「支える側」、樹木の譬えで言えば「つよきすけ」の立場で読んでみたいと思います。

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 先月発刊された書籍『いのちの光 仏法からみた「発達障害」』では、「発達障害」を持つメンバを支える男子部部長のエピソードを紹介して、今回の拝読御文を引用し、次のように綴られていました。

 『植えた木は、強い添え木の施しがあれば大風にも倒れることはない。しかし、このことを道理では分かっていても、実際、苦悩の風が吹きつける中で、「添え木」の存在となって支えていくのは容易ではない。
 前半に登場した坂田さんを支えてきた男子部の部長の行動は、まさに「つよきすけ」(支え)のあり方を体現していた。単なる優しさだけではなく、真剣に特性への理解を深め、生きづらさを軽減する方法を具体的に考え、一緒に希望をつくりだしていく。そこには、きれいごとではない本当の意味での「理解」や「支え」があった。(中略)
 果たして、自分自身は苦悩する目の前の一人のことを、本当の意味で理解し、いのちを守る「添え木」となれているだろうか--自らを静かに見つめることから、支援の一歩が始まるのかもしれない。』

 目の前の一人に想像力を広げて同苦し、「強い添え木」として行動できるよう、自分を鍛えていきたいと思います。

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 ここからは「三三蔵祈雨事」からは外れますが、先ほどの御文と同様、2つの立場から読むことについて、考えたいと思います。

〈御文〉
 我並びに我が弟子·諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし(御書234頁)
〈現代語訳〉
 私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。

 ご存知の通り「開目抄」の最も重要な一節ですが、「自然に」(じねんに)という言葉に注目します。
 実は、NHK Eテレの『100分de名著』という番組で、今月はミヒャエル·エンデの『モモ』を取り上げているのですが、そこで「自然(じねん)」について解説されていました。

 『自然(じねん)の「自」という漢字には二つの意味がありますね。「みずから」と「おのずから」です。「みずから」は主体的な意志を表し、「おのずから」は物事が勝手にそうなることを意味します。自然とは、その二つが合致する時のことなのです。』
【『「NHK100分de名著」ミヒャエル·エンデ「モモ」』】

 この解説を聞くまで、開目抄の一節の「自然に」も、何となく「疑う心がなければ“勝手に”仏界に至る」と、「おのずから」の意味で読んでしまっていたと気づきました。
 しかし、仏界に至るためには、「みずから」誓って行動する必要があるのは当然で、何もしないで待っていれば「おのずから」仏界に至るという意味ではないはずです。
 ただし、「みずから」活動するといっても、独りよがりの活動であっては、やはり成仏の軌道には乗れないと思われます。そこで、広宣流布の組織である創価学会で活動することにより、「おのずから」その軌道に乗ることができると言えます。

 そのため、この御文は、最高の善知識である創価学会の組織において、「みずから」誓って行動すれば、「おのずから」仏界に至る、という風に読む必要がありそうです。

 今後も、御書を深く学び、活動の糧にしてまいりたいと思います。

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