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皮が剥がれたか、なぎなのか、それとも

ここ数年おそらく世界中の沢山の人々が劇的な生活の変化を体験したと思います。最近だと今まだ起こっている(とされている)コロナウイルスの大蔓延とそれによる生活の大きな変化や人々の間で交わされる熱烈な議論、アフガニスタンでは国の在り方の変化と不穏な動き、日本でのオリンピックへの色々な摩擦、アメリカでは大統領選後やそれを取り巻く人々の分裂の継続、そして世界中で人種、宗教、国籍、性別、政治方針、富の格差のなどから生まれている人々の対立の増加。いろんな事がいつも起こっているなと片眉をあげながら社会不安の要素はいくらたっても絶えないなと思っています。

その他についてさかのぼると、善人だとおもっているロビン・ウイリアムズさんやチェスター・ベニントンさんが去ろうと決めたこの世の事。ミートゥー運動をきっかけに今まで聞いてきた何人かの体験談や自分のふるまい振り返って考えて、自分が傲慢、単純、暴力的な性質を頻繁に持ちうる(当然そうでは無い男の人も少しはいらっしゃると思います)、もしくはそういった「男性」で既にある可能性に対する強烈な自己嫌悪感を持ち始めた事、自分が男性であるという事は死んでしまう以外にはどうする事もできないと理解が進み絶望した事。この世の仕組みが人は勿論、生物の営み、物質の反応、天体の動き、量子の性質など自然/物理現象は隅々に至るまで弱肉強食の傾向が本質であると悲しく思い始めた事。時間をはるか未来に進めると、今知られている範囲では、この宇宙はいずれ拡散か収束をして終焉が来る事、そしてそれがあるならば現在の色々な事が全てとても空しく思えた事。

わたしがこういった事で暗い気持ちになっているとき、妻はHRTがおそらく影響してると言っていました。HRTは(上記の理由で)自分の男性性を少しでも削れるよう抗として始めて続けているもので、色々な影響はありますが最も強かったのが感受性の強烈な増加でした。大概の女性達は女性ホルモンが体をめぐって感性を敏感にしていても平静を保てる強い精神を持っているんだいう事がわかって、もろもろから生まれてくる暗い考えや気持ちも乗り越えて心の平静を保ち、それでも幸せを見出して見つけて生きてゆく事がわたしにはいるんだなと思うようになりました。

こう考え感じながらしばらくは苦労して色々試していましたが、ここ半年ほど大丈夫だと思えるようになってきていて、それに気が付いた今日これを書いています。結局は慣れてしまう事なんだろうかなと思っています。

わざと悲しい物語を見て悲しく感じて泣いてみたり、楽しい気分になって隠さずそれを表現したり、おかしな事を聞いて声を上げてわらったり、すごい発見を聞いてわくわくしてみたり、私の自慢のかわいい存在をみて頬がとれてしまうくらい微笑んだり。

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そして、この平穏は単なる嵐の前の静けさで、また気持ちの荒波が来てしまうのかもしれないという不安もあります。もしくは単に何かがこすれきってしまい、私が変わってしまったのかもしれないとも思います。若いころにはよく思った「自分が世界を良くしていくぞ!」の勢いも小さくなり、どうしたって自分の力ではもうやれそうにないからというあきらめもある反面、みんなそれぞれ色々な意図があってやりたい事をしているから、私がどうこう「良い」定義する事も容易には出来ないと思ったりも。それでも少しずつ自分と周りの人々が笑顔になるように自分のその場その場の小さい行動の一つ一つぐらいは選んでいきたいなと思っています、直接害が無くて相容れない人とは口を閉めて距離を置きながら... これは年を取ったという事なのかな