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あの人の思い出になりたいんだけど

わたしには、一方的に好きだったり、憧れたり、わたしの生きるを背負ってもらっている人たちがいる。その人たちとたまに、ライブやイベントというかたちで会いに行くことができる。会うことで関係性ががらりと変わるとかはないけど、とにかく会えるのは、めっちゃ嬉しい。確実に嬉しい。これで死んでも悔いはねえって思った日が何度もある。


浮かれまくった次の日は、その人のブログやSNSをみたくなってしまう。めっちゃダサいなー。思い出になってればそれでいいじゃん。と思いながらも、知らない誰かとつながれる世界に、「今日はこんなに楽しかったー!」とか「こんなことがあってね」とか吐き出したくなっちゃう衝動の中に、わたしが含まれていたら、もう幸福でしかないなーって。調べてしまう。


自分にあるダサさを認めてあげられず、まずはタイムラインをいつも通りながめる。そういう日に限って、フォローしてない人のつぶやきとか、公式アカウントの定期ツイートしか流れてこない。せめて友だちのつぶやきで安心したいのに...。もう出てこないと分かったところで、本人のアカウントのページに移動する。昨日見た投稿と変わらない。浮かれて調べた時に、わたしがいた空間についてつぶやいてる確率はけっこう低い。


超落ち込むわけじゃないけど、まあ、そうだよなあと。やっぱりちょっと落ち込んでるような、哀愁というか。調べなきゃよかったなあと思う。興奮が冷めて、お昼に食べたまぜそばがお腹をつついてきた。トイレへ向かう。


あの人の最高の思い出にはなれなかったのかなあ。毎回そう嘆いて、言葉にするまでもない日常に戻っていくんだけど、今日はちょっと違った。わたしは、とーっても嬉しかったことは内緒にすることがよくある。なるべく一人占めしたい。それもあるし、誰かに抑えきれない熱を共有したときには、たいていぬるくなって返ってきてしまう感じがするのだ。


形に残さなくても、嬉しいは(それ以外の感情も)残り続けることがある。あの家で植わっている花がかわいいな、とか。コンビニで「絶対にこれ食べたかった!」ってものを見つけられた、とか。あの人もそういう感じなのかなあ? 昨日もれてた「嬉しいなあ~」は、今も「嬉しいなあ~」のまま、どこかにいるのかなあ。


これからも、大好きな人に会った翌日に、同じことをすると思う。ダサさと葛藤しながら。言葉や写真をアップしてくれてたら飛んで喜ぶと思う。でも、記録されていなくても、わたしがいたことで生まれた感情は、そこにあった形をとどめていなくても、その人の中に残っているかもしれない。まぜそばがいつの間にか、わたしの体の一部になってるみたいに。それはたぶん、希望だな、と思う。

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2022/1/30 さくらい もね「あの人の思い出になりたいんだけど」(short note) より転載

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