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気づいたら伊那マスターへの道を歩み始めていた話

インタビューか何かで常田さんが言っていた、「山がでかい」「伊那には何もない」という発言が妙に引っ掛かり、気づけばひとりで国道153号線を北上していた。


国道153号線とは、名古屋市からKing Gnuのフロント2人の地元・長野県伊那市を経由し、塩尻市へと続く道である。
古くは、三河湾でつくられた塩を信州まで運ぶ「塩の道」として知られ、中山道の脇街道として発展した道らしい。
三州街道、中馬街道、飯田街道、伊那街道などたくさんの別名があり、詳しい説明は省くけれども、とにかく今も昔も重要な道に変わりない。
自分の地元と、尊敬してやまないKing Gnu2人の地元が一本の道でつながっていることに、歴史のロマンやら勝手な運命を感じて無性にわくわくした。


休暇を取った私は、とにかく行けるところまで153を北上してみることにした。
こんな行き当たりばったりでミーハーな旅に付き合わせられる人はいないので、もちろん一人旅に決まっている。

小さな軽自動車に乗り込み、まずは紅葉の名所・香嵐渓で有名な豊田市足助町を目指した。
ちょうどKing Gnuにハマり始めていた頃に、足助までドライブしながら3rdアルバムのCEREMONYを擦り切れるほど聴いていたので、私にとって足助はKing Gnuとの思い出の地になっている。
足助を通るたびに、このバンドに出会って人生変わるかもしれないと予感した、沼落ち前夜の興奮を今でも思い出してしまう。


足助を越えて長野県との県境である稲武町に近づくと、だんだん標高が高くなっていることに気づく。
林業が盛んな地域らしい、杉が規則正しく天に伸びている山々を見ると、山間部で生きていくとはこういうことなんだと思わずにはいられなかった。
この街道沿いを発展させてきた先人たちからの恩恵を受けて、いま私は伊那に向かうことができているんだとしみじみした。




長野県に入り、根羽村のあたりを走っていると、やたらと「南信州」と書かれた看板が目に入るようになった。
景色はあまり変わらないけど、稲武から一歩でも長野側に入れば南信州って言っていいんだ…私、いま1人でKing Gnuの地元(を拡大解釈した)・南信州まで来れたんだ…と、謎の高揚感に包まれた。
この際、下伊那郡とか上伊那郡とかはどうでもいい。地名に伊那と入っていればみんな伊那なんだ。


とは言っても、下伊那郡は広い。
走っても走っても、どんどん新しい山が現れるので、そのたびにでかい山の定義を更新しなければならなかった。
伊那市にはまだしばらく到達しそうになかった。

そして、阿智村の急坂を下り終えるころには、いくらKing Gnuの音楽が寄り添ってくれても体力の限界には逆らえなくなっていた。
ふとした疑問をきっかけに3時間以上山道を走り続けてしまった私は、やや敗北感を味わいながら歴史ロマンを捨て、中央道に課金した。



飯田山本ICから30分ほど走ると、そこはもう伊那市だった。
小黒川PAにたどり着くと、よくわからない達成感と疲労感から、しばらくは放心状態で山を眺めていた。
2つのアルプスと谷のコントラストは、平野で育った私にはとても刺激的で、きらきらと輝く夕方の山肌、盆地に広がる街なみには全てを投げ捨てたくなるようなまばゆさを感じた。


ついに私は、常田さんのいう「山のでかさ」も「何もなさ」も、知ってしまったのかもしれなかった。
正確に言えば、何もないわけはないし、平野にはない全てがあるように見えて仕方ないのだけど、何もないと言ってしまう気持ちも少しだけわかるような気がした。
そして、わかってしまったから、またわからないことが増えてしまった。
King Gnuの音楽に出会った時がそうだったように、何気ない疑問と少しの好奇心はパラレルワールドに繋がりがちだと思った。



それから私は何度も伊那に通い、いくつもの時空を超えてしまったような気がする。

いつの間にか、伊那市立図書館のカードを作ったり、高遠町図書館で旧高遠町の総合計画を調べ始めたり、伊那市議会の会派を調べたり、ふるさと納税をしてみたり、伊那谷のりんご農家さんのお宅で手料理を振る舞ってもらったり、知らない伊那市民の方から地酒をプレゼントされたり、知らない伊那市民の方と温泉で意気投合して移住を勧められたり、King Gnuファンのお友達ができて旅のしおりまで作って一緒に伊那遠征したり…
をすることになるのだが、それはまた別の機会に書こうと思う。