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都会にいると自分を見失いそうになる。

普段は田舎暮らし。
実家は都会まで電車で30分のベッドタウン。


1年ぶりに帰省した。
今回は諸事情あり、12日間という長期滞在。

帰省してから3日経った頃、電車に乗っていて感じた。

「自分が砂のようにパラパラと崩れ去っていく感覚」

漠然としていてよく分からなかった。

・・・

さらに数日経ち、また電車に乗っているとなんか分かってきた。


都会はシステムが整いすぎている。

アスファルトとコンクリートで覆われた地面
カーポートや給湯器や室外機などの設備がびっちりつけられた住宅
至る所にあるスーパーとコンビニ
1本逃してもすぐに次がくる電車


手を入れなくても、便利な環境がある
自分から取りに行かなくても、情報がある。
とりあえず行けば、モノがある。


受動的に生きていけば何かしら平均的なモノにはありつける。
きっとモノだけじゃなくて友達や進学先や就職先も。


5年前までは自分もシステムの中に組み込まれていて、なんの違和感も感じていなかったけど、今はなんか違う感を感じてしまっている。田舎にいると次の電車はいつ来るのか、どこに美味しいお店があるのか、自分から取りに行かないとない。



都会のシステムがすごく脆いと思ってしまった。
脆い訳ないのにね。これは何十年という企業努力と人々の労働力の結晶であり、便利を追求した寸分の狂いもない強固なシステムなはず。


なのに、暮らせば暮らすほど自分がどんどん崩れていくような感覚になった。自分が普段何を感じていて、何が好きか、どんな未来を望んでいるのか、ぼやけてくる。一瞬自分を見失いそうになった。



都会には人がたくさんいて多様性があり、電車の吊り広告にもいろんな情報が載っていて、自分の「好き」を見つけやすそうなのに。感じ取るのはその逆。自分が何を好きか考えなくても、そこそこのモノや情報がすぐに手に入る。知った気、分かった気になれる。脆い。


そして何より生命力を感じ取りにくい。


目の前に運ばれてくる料理の素材はどこかの土地から運ばれてきたものなのに、自分たちの使った水はいずれは川に流れていくのに、まるで想像ができない。


帰省する1週間前までフサフサと立っていた生命力を感じ取る生毛がツルツルに剃られてしまったようだった。自分には感じる心があったはずなのに、感じ取れなくなっている。

身を置く環境の影響とはそこまで強力なのかと実感した。きっと一緒にいる人もそう、誰とどこでどう過ごすかって本当に大事なんだと再認識できた。

真中

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