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【鬼滅の刃】なぜ鬼殺隊は容赦なく元人間を殺せるのか

 私はアニメが好きですが、一度観ると止まらなくなるタイプの人間なので、本当に時間があるときにしか観ないようにしています。
 ただ、この頃ずっとおうちで暇しているので、どうせだし普段遠ざけていたものに触れてみようとしました。
 ということで連載が終了すると話題の作品の鬼滅の刃を視聴しました。
 プライムビデオ以外にサブスクの会員に登録していませんが、プライムで取り扱っていたので一安心。
 とりあえず少しづつ観ようと思っていましたが、

私にしてはいつも通りですが、1日で全部観終わってしまいました。。

 毎話毎話次回が待ち遠しい締め方だったのでキリがいいところが中々みつからず、気がついたら26話まで終わっていました。
 ここまで熱中してアニメを観られたのは凪のあすから以来ですね。。

 凪のあすからが気になる方はぜひこちらよりご覧ください。
 すごく酸っぱくて透き通った作品です。

 さて、話題を鬼滅の刃に戻しますが、鬼殺隊って鬼を殺すための組織じゃないですか。

でも鬼って元々人間じゃないですか。

 主人公の炭治郎こそ鬼に情けをかけ、死の間際に手を握ったり、強い鬼への畏敬の念を忘れないのですが、他の鬼殺隊の人って、鬼に対して容赦なさすぎやしませんか?
 曲にも元は人間ですよ?
 蜂の巣駆除とは違うんですよ?

 という疑問が生じたので、鬼に対して容赦なく刀を振るう鬼殺隊について考察することにしました。


人は記号と個人を使い分けている

 「鬼は人を食い殺す」
 「鬼は人にとって敵」
 「したがって鬼は殺さなくてはならない」

 人間サイドの立場から鬼という存在を表すとこのようになります。
 しかし、禰豆子が人を食べたことがないという事実によってこの「鬼は人を食い殺す」という前提が否定されることになります。

 那田蜘蛛山での闘いの後、炭治郎が鬼を連れて鬼狩りをしていたことや、鬼である禰豆子の存在を認知した柱たちは最初は殺そうとしたが、お館様の説得や、禰豆子が人を襲わない証明の末容認するという結論に落ち着きましたが、禰豆子が鬼を食べないということについて腑に落ちている柱はそう多くないように思えます。

 炭治郎と禰豆子のストーリーを最初から観ている視聴者は事情を理解していますが、人を襲わない鬼が存在していることをにわかに信じがたいという柱たちの感覚はそれはそれで正しいものでしょう。

禰豆子についてソクラテスによる定言的三段論法に当てはめると
大前提:全ての鬼は人を襲い、食らう
小前提:禰豆子は鬼である。
結論:禰豆子は人を襲い、食らう

と考えるのが当然です。

 彼らは日々鬼と接し、多くの死戦を潜り抜けてきたからこそ帰納的に人を襲わない鬼の存在など信じられず、実際に暗がりに挑発行為を受け、目の前で血を流している人間がいるのにも関わらず襲わなかったという結果に驚いているのです。

 作品の世界から一線を画している我々視聴者と同様に禰豆子を判断することができないのです。

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