海部陽介『人間らしさとは何か』

関節可動性の高さ
ヒトを含む霊長類は、関節可動性が高い。個々の関節が、可動性を高めるように設計されている。私たちは肩をぐるっと回せるし、左右の脚を開いたり、つま先を横に向けたりもできる。
私たちが四肢を自由に動かせるのは、肩関節や股関節が球関節と呼ばれる構造をしているからだ。肘関節はさらに複雑な動きができる構造になっている。
このような霊長類の高い関節可動性は、枝を握りながら樹状を動き回っていたその元々の姿に起因したものだろう。私たちはそんな遺産を受け継いでいる。そのため、オリンピックで見るような多彩なスポーツが可能となり、またダンスが可能となった。
私たちは他の動物に比べて、パワー、瞬発力、ジャンプ力などで見劣りするが、じつは関節可動性の高さー自在に複雑な動きができる、器用な作業ができるという点で、他の動物やサルたちより秀でた運動能力を持っている。

直立二足歩行
他の霊長類のように、骨盤=大腿骨間(股関節)と骨盤=脊柱間の関節(仙腸関節)との位置が離れていると、直立時に不安定になってしまう。この問題を解決するために、ヒトは骨盤を短小化した。
同時に、チンパンジーでは、骨盤上部の翼状の部分(腸骨翼)が横向きなのに対し、ヒトの骨盤はそこが前方に回り込むようになって、立体的な構造に変化している。この構造のおかげで、ヒトでは中殿筋という脚を動かす筋を左右とも骨盤の横側に配置し、歩行時の片足立ちの時に身体が左右に崩れない仕組みができた。
人の膝は、股関節に対して少し内側に入っていることも特徴だ。こうなっていると、片足立ちのときに安定する。
直立に伴ってヒトでは頭骨の真下に脊柱が連結しており、その脊柱はS字状に湾曲していて、下方の椎骨(腰椎)はサイズが大きく体重を支えるのに適した構造になり、さらに足底部は前後左右の両方向にアーチ状に変化(「土踏まず」の発達)している。
このように全身の各所に影響が及んでいる事実は、それだけ直立することが簡単でないことを示している。
身体の大改造を経て進化した直立二足歩行だが、結果としてヒトの歩行はエネルギー効率の面で優れたものになった。膝や腰が曲がっていると、体重を筋のパワーで支えることとなってしまうが、直立していれば重力を骨格で受け止められるので有利だ。さらにヒトは、筋と違って疲労しない靭帯を身体各所でうまく使うなどして、歩行時のエネルギー効率を上げている。
そして、直立二足歩行になることで、前脚=手が歩行の労務から解放され、自由に使えるようになった。

裸のサル
「ヒトはなぜ裸なのか」ーそれはヒトが汗をよくかくということとセットで考えねばならない。ヒトのように大量に汗をかく動物はほかにいない。そもそも哺乳動物は毛皮をまとっているので、汗をかいてもその効果は薄い。「人はなぜ裸なのか」という問いは、「人類はなぜ毛皮を捨ててまで発汗という仕組みを進化させたのか」という問いに変換できる。
動物はそれぞれに体温調整に苦労しているが、ヒトは肌を露出して水を贅沢にまき散らすという戦略に出たのである。
人類は、毛皮のほとんどをなくすという肌の大改造を行い、さらに汗腺のほぼ全てを、フェロモンを発散する役目のアポクリン汗腺から、そのような役割を持たないエクリン汗腺に置き換えた。哺乳動物にとって「汗」は異性を誘惑するフェロモンとしての機能が主だが、ヒトにとっての汗は体を冷やす水冷システムとして、その機能を変えたのである。

言語と、言語を可能にする声
言語は、単語が文法と呼ばれる規則によって並べ替えられることによって生成される。
個々の単語の音には元来の意味はなく、ヒトによって恣意的に意味づけられている。<猫>にも<cat>にも、その音には本来の意味はないが、私たちがそれは何を意味するとルール付けをしている。
それを可能にしているのはヒトの高度な知能だが、もうひとつ、音を複雑に分節する能力=多彩な声を発する喉の構造をもつ必要がある。
私たちの多彩な声は、口から吐く息に様々な振動特性を与えることで生み出される。具体的には、声帯の動きで吐く息に振動を与え、それが喉の奥から口の中の空間を移動する際に喉元(喉頭)や舌や歯の空隙や口元などのかたちを変え、様々に共鳴させることにより、多彩な音が生まれる。

表情と視線
ヒトは白目を持つ。白目の中で動く黒目の位置を相互に読み取り、アイコンタクトできる能力をもつ。
例えば、ほかの霊長類やサルたちは、ヒトの白目の部分(強膜)に色素を含ませているので、どこを見ているのかよくわからない。それは仲間に自分の視線を悟られたくないからだと言われている。
ヒトは、言わば「視線を晒す」「表情を晒す」ことで、社会的なつながりを強化しているのだ。

社会
人類学者ロビン・ダンバーが言うように、脳の容量と社会の大きさは比例する。社会のメンバーの関係性を処理するには、膨大なリソースが要するからだ。人類において、その数は150人までだという。
だが、人類は、それより巨大な集団をつくってきた。「日本人」は1億2500万人いる。「仏教徒」は世界に4億人いる。
ユヴァル・ノア・ハラリは、このようにヒトが巨大社会を創ることができるのは、ヒトの「虚構を創る能力」に依存すると論じている。
日本という国も仏教という宗教も、もともと自然界にあったものではなく、一部の人間が創り出した概念だ。ハラリはそれを「虚構」と呼び、ヒトにはそうした虚構を創り信じる特殊な能力ー平たく言えば想像力或いは妄想力ーがあって、それゆえ巨大な社会や組織を構築できると主張した。

平等と個人の尊重
ヒトは平等を求める特異なサルである。普通、社会性動物は、そのメンバーを順位づけすることで社会の秩序を形成する。
だが歴史記録のある近現代の人間社会において、構成員が全員順位付けされているような共同体は知られていない。それどころか、ヒトのプリミティブな社会形態である狩猟採集社会では、リーダーと呼ばれる人に特別な権威や命令権はなく、狩りで活躍した人はあえて称賛されず、狩りの獲物は全員に平等に分けられるなど、社会経済の両面で不平等が生まれる芽を摘んでいく仕組みが存在する。
つまり、本来は、集団内の平等を求め、個人を尊重しようとする心は、人間らしさの一部を形づくっているのだ。
その平等と、それに基づく個人の尊重という心性がベースにあるから、その後蓄財ができるようになって社会の階級が生じ、権力者や支配階層が現れてくると、カウンターとして平等ー個人尊重に引き戻そうとする思想や勢力が形成されてきたのである。

芸術
芸術、或いは美的な象徴表現には、私たちの感情を煽り、集団の結束や秩序を高める効果がある。
例えば現代の国歌や国旗、軍楽や軍旗、校歌や紋章などには、対外的な省庁の役割をもつとともに、構成員の心をまとめる目的がある。旧石器時代の音楽や美術にも、大勢の気持ちを瞬間的に鼓舞する仕掛けとして使われた可能性がある。「踊る」という行為も同じだろう。音楽とダンスには一体性があるが、リズムに乗って仲間と動きを揃えることに、私たちは大きな高揚感を感じる。
芸術は、シャーマニスティックなトランス状態にも似た個人の制作行為へののめり込みという側面があるが、その結果としての作品には、集団の秩序を強化または拡張する媒体となるという側面もある。

冒険と創造力
サルやネコを観察すればわかるように、好奇心やある種の冒険心は他の動物たちにもあるが、そこに問題解決する創造力が加わることにより、人間の挑戦心は比類ないものとなった。
私たちはできないとあきらめるのではなく、「どうしたらできるのか?」と考える動物に進化した。そのことが道具の進化、ひいてはテクノロジーの発展につながる。
他の動物において、生存域ーニッチは、身体的条件に拘束される。ニッチを広げるには、身体的な進化によって適応していく必要があるが、ヒトは進化ではなく、脳ー技術による問題解決によってニッチに進出できる特異な能力をもった。

想像力と仮想世界
人は死を畏れる。遺体や遺骨に特別な意味を見出し、さらには遺体から離れた霊魂、その霊魂が還っていく霊界や死後の世界、そこに住まう祖先といった観念をもってきた。それらの死にまつわる「虚構」が、ヒトの社会の基盤には埋め込まれている。
ヒトの仮想世界をつくり出す能力は、集団の結束を強め、さらに芸術表現、挑戦的な冒険などの能力にも転化していく。それらが緊密に結び合って、ヒトという種のニッチの拡張を実現してきた。
ヒトは「いらぬこと」をすることによって、ヒトの世界を創ってきたのである。

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