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落書き

家族が集まる部屋を居間とかリビングとかいう。昭和39年(1964年)、第1回めの東京オリンピックのころ、その部屋の一番いい場所にあるのはテレビだった。テレビ以前のその席は一家の大黒柱であるオヤジだった。地震、雷、火事、オヤジといわれるように、世の中の怖いものに肩を並べていた日本のオヤジは家の中で一番いい場所をテレビに奪われ、その威厳を失っていったように思う。そのテレビでさえも、一家に一台から一部屋に一台となり、2021年に開催された2回目の東京オリンピックのときは、手のひらの中で動画が見れるようになっていた。世の中が便利になっている一方で失ったモノやコトが沢山ある。

先日、音楽家の秦万里子さんとYouTubeのオンラインライブで「ノートに何を書いていいのかわからない方へ」というお題でトークセッションの最中に気づいたことがたくさんあった。そもそもこのお題は、わたしがノートの書き方を教えるとき「どうぞ自由に書いてください」というと「どうやって自由に書いていいのかわからない」という方が多いので困っているという話をしたのがきっかけだった。自由が一番難しいということなのだ。セッション中の秦さんとの会話は楽しく、わたしはその最中に沢山のヒントや気づきがあった。わたしがメモをしたことの一つは「固定電話が無くなって落書きが無くなった」というエピソードだった。なるほど、確かに。昭和の時代のをすると上座も下座もないフラットな人間関係が基本なZ世代にはスルーされそうだけれど、昔話をすることにする。

テレビの次は、電話が一家一台という流れだった。わたしが生きている間の電話の進化と変化はすごい。今、電話は固定電話はあるのだろうか。履歴書にかろうじて電話番号を書く欄は存在するが、市外局番から書く人はいないのではないだろうか。かつて交換しあった電話番号は、SNSのアカウントとなり覚える必要も無くなっている。今の電話は個人から個人へ何時間話してもほぼ無料なのである。家の中で電話はテレビほどいい場所には置かれてなかった。テレビの定位置はリビングに対して、電話はそれぞれの家ごとに様々だった。女の子から電話番号を聞き出すのも大変だったけれど、女の子の家に行った場合、電話がどこに置いてあるのか位置を確認したものだった。玄関なのか廊下なのか、居間なのか、居間の場合は親が出る可能性があるなと、いろんなことを先読みした。固定電話の側には、必ずといっていいほど"アカサタナ"と段々の見出しのついた電話番号帳とメモ帳とペンが置いてあった。そして、長電話になるとメモ帳に落書きをした。その落書きはくるくると丸を書いたり、線をいくつも書いたり、意味不明な文字を書いたり、見るからにまったく価値のない書き物だった。長電話が終わるとメモは切り取って丸めて捨られた。秦さんは、「長電話中の落書きは、自分の中から何かを吐き出して心を整えていたのではないか。スマホで電話するようになって、落書きすることが無くなった。」と言う。なるほど、うなずけた。落書きを失った人間たちはもしかすると心を整える他の方法を探しているのではないだろうか。

あらためて考えると、手にペンを持って紙に書き出すという行為は、自分の中から何かを出すということだ。「メモは排出だ」と言う人もいる。心がザワザワしているとき、写経をして心を整えるとい仏教の智恵や、手を動かして皿洗いや単純な作業など何も考えずに黙々とやっていると不思議とスッキリした気分になり心が整うようだ。写経はちょっとハードルが高いが、電話の側にあるメモに落書きなら誰でもできそうだ。長電話の最中に落書きすることでリラックスできたのだ。人間にとって一見無駄に思えた行為は、実は豊かに生きるための智恵だったのかもしれない。世の中が便利になって行く一方で、このような無駄と思える行為が次々に無くなっていることが気にかかる。その副作用として、人間は必要なことしか考えることをしなくなっているように思う。何をするにでも直ぐに正解やスピードを求める"検索"の世界が広がっている。何に対しても余白や遊びが無くなっている。検索の世界は、人間が本来持っているちょっと先の未来を予感したり、誰かのことを何十手先まで思い巡らす本能みたいな機能の性能が衰えて来ている気がする。自分の今いる場所がわかったり、東西南北の方向がわかったり、銀行の窓口は3時までで、郵便局は5時までとか、この快速電車はこの駅は停まらないとか、少年ジャンプは月曜日でマガジンは水曜日だとか、どーでもいいことを考えなくなった。

固定電話の横あったメモの帳の落書きの話だった。Z世代以降の人たちはその光景も想像できないだろう。「落書きすると心が整います。落書きすることは豊かに生きる智恵なのです」と言うと、「落書きはどうすればいいのですか?」と聞かれそうだ。落書きは落書きで、わたしも誰かに教えられたことはない。説明など出来ない。きっと生まれながらに持っていた智恵なんだよ。だまされたと思って今年は手書きを復活してみるのはいかがでしょうか。ということで、わたしは豊かに生きるために「手書き復活」を宣言したい。(文責:中島正雄)

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