本当の自分って? 2012-11-19
先日、レッスンに来ていたAさんが、アレクサンダーテクニークを学び始めてから嫌いな人への接し方が変わり、仕事がやりやすくなったと話していました。
今までは意見が違うと、とことんまでやりあって仕事であっても口をきかない、くらいだったのが、どんなに腹が立ってもまあそれはそれ、それはひとまず置いておいて仕事の話は普通にする、というのができるようになったというのです。
みんなから、それってアレクサンダーテクニークのシンキングボディの授業ががむっちゃ役に立ってるじゃん、などと言われていて、でも「丸くなった」とか「変わった」という言葉がなんだか気に入らないようでした。
「いい人になった」という言葉は、確かになぜか居心地が悪いよねwww
「もしかしたら変わったんじゃなくて、今の方が本当なんじゃないの?」と私が言うと、「じゃぁいつの自分が本当だったの?」という話になりました。
たぶん本当に物心つくかつかないか、くらいの時からもう自分を抑えたり、我慢したり、隠したり、ということはやっていた、じゃぁその前ってこと?
残念ながら昼休みが終わり、この時はここで話は終わってしまったのだけど、そのあとたまたま読んだ「私とは何か(平野啓一郎)」という本がタイムリーで、この疑問へのヒントをくれました。
作者は「分人」という考え方を提案していました。
人は、対人関係それぞれにキャラクターを持っている。
それの、どれかだけが本当の自分で他は仮面である、あるいは確固たる唯一不変な本当の自分があって今の自分は仮の姿、という考え方はどうも人を不幸にする。
内面と外面、表の顔と裏の顔、あの人の実態は、などという言い方は「本当の自分」という実在しないものがさもあるかのような考え方をするからされるのだ。
実際のところ人間は色んな対人関係で生まれる複数の人格のあつまりなのだ。
それぞれの複数の人格はどれも実在している。
そしていずれもまぎれもない自分なのだから、それらが共生しているのが本当の自分、その人格たちを「分人」と呼んで認めてはいかがなものか。
と、かなり乱暴な要約で誤解を生みそうだけれど、そんな感じのことを書いてました。
つまり、それに倣うと、今まで嫌いな人を許せなかったAさんも、許せるようになったAさんも、どっちも本当の彼女だったってこと、どっちかが本当だなんて区別しなくてもよかったのです。
本当と言う言葉で、自分自身の一部を差別するから、それ以外が嘘だったり、よくないものだったり、本当の確信がもてなくて焦ったり。
いい人と言われると居心地が悪いのも、本当の自分はもっといろんな面を持っていて、そこだけをクローズアップされ、他は嘘、と言われたようで窮屈なんだろうなぁ。
その、分人っていい考えだよね、すべてが自分かぁ!と思ってふと思い出したのは、夏に来日したキャシー先生のレッスンでやったHokey Pokey!
キャシーは、自分のどっちかの側がなんかしている、なんて誰かが言う時には、このダンスをしたらいいんじゃない?と言ってこの遊びを教えてくれたのです。
アレクサンダーテクニークでは、身体と心は分けられない、分けて考えないと学びます。また、何かをするにも体全部、今いる空間全部に気づくよう言われます。
仏教用語でいう「身心一如」というのとも似ているかも。
しかしまあ、心と身体を分けないというアレクサンダーの教えが正しく素晴らしい、のではなく、分けて考えない方がたいがい人間の機能がうまく働く、なのでそれを知ってどうするか、あとは各自お好みで、ってことですので念のため。
たとえば「肩が痛くて。。。」と言っても、肩が勝手に痛くなることをしているわけではないし、自分の命令で動かしてきた結果そうなってるにすぎない、自分の脳ミソから出た指令なんだよね。
だから、自分の中も外も、体の左も右も、前も後ろも上も下も、ぜーんぶ丸ごと自分なんだっ!と思い出すためにHokey Pokeyを踊っちゃえと言うわけ。
アレクサンダーテクニークでは「分けられない」と説いて全体性が大切だと言う。
分人のほうは「分かれている」でいいんだと説く、でもこちらも自分のすべてを認めて受け入れようという考えだよね。
一見逆に聞こえるけど、どちらも言いたいことは一緒な気がする。「自分の全て」ってこと。
そのココロは「自分の全てに責任を持つ!」ってことなんじゃないのかな。
なんのために?
それはたぶん、その向こうに「自由」が広がっているから、だという気がします♪
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