参拝する 2013-01-04



初詣に行ってきました。

こういう参拝の機会は年に数えるほど。

いつもなんとなく、きちんと作法はできてるかしら、と思いつつ人込みにせかされて神頼みをする、という感じだったりします。



無病息災を願うという新年の、改まったちょっと特別な行為、もうすこしなんとかきちんと感が欲しいなぁ。。。

と、2日前に捨て去ったはずの煩悩が早くも新しく芽生えているような気もしつつ。



そういえば、アレクサンダーテクニークのレッスンで「拝礼する」を探究していた人がいたっけ!と、参拝の列に並びながら思い出しました。



人間が何かをするには必ず身体を使わねばならないわけですから「参拝をする」も「椅子に座る」も「演奏する」も同じフィールドにあると言えばそうなのです。

ちょっと乱暴かもしれませんが。。。

何も考えずに動いてしまう状態を変えることで何が変わるでしょうか。



ここでの拝礼の作法は「二拝(深いおじぎ)二拍手(かしわ手)一拝」



「深いおじぎ」というと頭を深く垂れ、ヘソ上や腰のあたりから体を前に折るのを見かけますが、人間の骨格的な構造からみた場合、胸を押し縮める格好になって呼吸にもよくないし、脊椎(背骨)にも負担がかかりやすい。



身体に負担をかけつづけるような動作をしないと、神様は願いを聞き届けてくれないなんてことがあるでしょうか?



深いお辞儀をする時におススメなのは、股関節から曲がること。

股関節は、人間の身体の中でダイナミックな動きが可能な関節のうちの一つ。

たくさん曲げる構造になってはいない脊椎の途中で大きく曲げようとする必要はないし、痛みはなくても無理がかかります。

沢山動ける、大きく曲げるのに適した股関節に、その動き、任せてみてはいかがでしょう。



そして脊椎は、頭蓋骨と接している部分から尾骨(しっぽ)のところまで、本来のカーブと長さを保ったままで。

その方が深くお辞儀ができるし、楽ちんです。



さてさて、「かしわ手」はというと。

手を身体の前で合わせる時、腕をぎゅっと胴体に押し付けている必要はありますか?

肩を上げないと手を挙げていられませんか?

肘を横に張って持ち上げたり、両手を押し付けていないと、手を合わせていられませんか?

そんなに手を打ちつけないと音が出ませんか?



これだけやってみても、無意識でやっている時よりもずいぶん動きが変わってくるし、身体にも優しい動きとなると思います。



そして、レッスンでこれを探究していた彼は、さらにアレクサンダーテクニークを使った上でやってみて、その感想はというと、動作が楽でやりやすいことと、やはりその気持ちにも変化があり、新しい動きでの拝礼の方法を気に入ったとのことでした。



私も実際今書いたようなことをすこし意識して参拝をしたのですが、全部きちんとできたとは言えないけど、人にもまれながらの拝礼という環境にしては、行為に気持ちが伴っていたという気がします。

また、今までよりお願いしたことが、とりあえずでなくきちんと言えた満足感もありました。



参拝する、というのはいろいろしきたりや作法があるけれど、それをすることによって何かが得られるからやるのではありません。

その行為に何を込めるのか、それは一人一人の心の持ち様、どういう風にやったから良い悪い、どうした方がいいというのは言い切れるものではありません。



ただ、自分の行為に何を込めるのかと考えるとき、ただ考える、というやり方の他に、自分の動きの質を変えながら自分に問うてみるというそんな方法があるのです。

それで何が変わるのか、それは試してみないとわかりません。



でも、全く何にも違わない、ということもたぶんありません。

参拝という何か特別な行為だからではなく、身体を使って何かをする、ということ全てにそんな選択肢があるのです。

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