カップを洗う、の探求 2012-11-15

先日、カップを洗っていると右の脇腹がなんだか痛くなってきました。

「あれ?何でだろう?」と考えても理由がわからなかったので、とりあえず動きをリセットしてみることに。



まず、シンプルに立ってみる。頭が自由に動けるように、脊椎の長さを思い出し、股関節を思い出し、足が床についていることを思い出す。。。。。。と身体の前でカップを洗っている両手が、中心よりも左に寄っていることに気づきました。

湯沸し器のホースが左側に位置していたため、それをよけるために少し右側に立ちながら、お湯の出口に合わせて両手はより左に持って行っていたのです。

つまり右手をより左側に遠く伸ばして使っていたわけ。



そこで立ち位置を少し左に、身体の中心線の前でカップを洗えるようにしてみたら、痛みは起こらなくなりました。



ふむ、左に立ち位置を変えないとしたら。

両手を中心に弧を描くライン上で自分の立ち位置を変えるという手もある。しかしそれだとシンクの前に平行に立たないので無意識にはできにくいだろうな



では、シンクと並行な立ち位置を変えたくないとしたら。。。

と、ここまで来て、たかがカップを洗うための手の使い方や立ち位置に、こんなに選択肢があるなんて思わなかったなぁと思わず笑ってしまった。

以前は、シンクの全面によりかかり、手元を見下ろすために首を丸めて胸を押し縮めて、なんか足の外側に体重を乗せたくなるのよね、と思いながら、洗い物って疲れるなぁと思ってただけ。



そしてもし脇腹が痛くなったら、次に鍼灸に行った時に「このあいだ洗い物してたら脇腹が痛くなって、もうなんでもないんですけど」と言って先生に脇腹の様子を見てもらい、場所によってはお灸や鍼をしてもらって、何か異常もないようだしひとまずめでたしめでたし?という流れをたどるだけだったと思う。

アレクサンダーテクニーク習い始めてから、ずいぶんと自分の体に注意を向けるようになったと感じます。



痛みというのは、自分の身体が「身体の構造的にそぐわない使い方をしてますよ」と訴えかけてきてくれているもの。

でも今まではその使い方を見直すことは考えず、痛みをなくすことを目的にいろんな手を尽くしてきたんだなぁ。お金もかけて。



しかしそれってつまり、その痛みを訴える自分自身の口をふさいだり、眠らせたり、無視したりしてるだけだったんじゃないだろか。

それはある意味、自分に対する暴力だったなぁと、最近つくづく思ったりするのです。



痛みや支障がないのなら、自分の今までの使い方が間違いないと信じていいのだろうけど。

でも痛みというのも氷山の一角なのかもね。

軽い疲れやだるさや、あれっ?おかしいな、と思う些細なこと、それが「痛み」という目に見える氷山を水面下で支えているのかもしれない。

だからといってその氷山の水面下の9割を退治しよう!というわけでもないのだけど。



昔、鍼灸で「頭の正しい位置はここ!」と首をぎゅうっと引っ張られたけど、アレクサンダーテクニークでは「この方が人間のつくりや習性や本質に沿っていますけど、何か?」くらいのスタンスで、じわじわと効いてくる(笑

そうやって自分で選び取る必要があるんでしょうね。



そして実際に自分の体が今どういう状態か、全身からのさまざまなフィードバックを受け取り、分析し、対処する、自分だけでなくまわりの空間に対しても、まわりにいる人に関しても。

そういうところが鍛えられている気がします。

そしてちょっとずつ、より自分に誠実になっていく。



ふむなるほど、だから音楽とアレクサンダーテクニークって相性がいいんだね。

練習したとおりに弾けるかしら、という「過去」や、間違えたらどうしよう、という「未来」ではなく、「今ここ」で、そのすべてを呼吸して音を出す、ということが演奏する、ということなんだもんね。



まぁ音楽だけじゃなくてすべてがそうなんだと思うけど。

「生きる」は、まさに「今ここ」なわけですしね。

さてさて探究の日々は続きます。

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