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何も起きない何もないところであっても、自分が必要な学びができることを信じてみる〜2023-04-24

【タレ流しチャレンジ#11/14】

わたし、入院している母のお見舞いに行きたくなかった

自分の仕事の営業活動やらを色々やらなくては!と、少々焦っていた時期で、さまざまなことを必死にやったり試したりしていた

それでも何日かに一度は行くことにしていたある日、お見舞いに行くと母は寝ていて、悪いけれど都合よく帰ろうかと思いかけ、ふと考えた。

この、お見舞いに関するモヤモヤを、ここらでちょっと考えてみない?と、ベッド脇の椅子に座った。

冷たいかもしれないけれど、母と私の人生は別々のもの

私は私で生きていかなくてはならないわけで、そのために必要な物事に、より時間と力を注ぎたいのは当然だし優先するもありだ

悪いけど仕事が忙しい、と、お見舞いに来ない選択をはっきりした方が、母はがっかりするかもしれないけれど、私の精神衛生上はいいかも

気が乗らないまま来る方が、後ろめたくもある

さて、ではもしそうするとして、私はお見舞いの代わりにその時間で一体何がしたいのだろう?

よっぽどのことが得られると思うから、それに比べてこの時間がもったいない気がするわけだ

ブログ書いたり、マーケティングの勉強したり?
いや、もっと何か、たとえばこの時間でそういうセミナーに行くとする。

一体どんな素晴らしいものを得られるの?

お金を払って、期待して行って、いろんな話を聞けて、同じような人たちと話して?刺激を受けて?

何かを掴んだ感だけは満載でそれさえやれば!と思って帰ってきて、結局なぜかやらないやれない、とかいう方が今までにもあるあるじゃないか…

お見舞いよりもそれを選ぶ?

いやもっときちんとしたものに参加して、高い授業料を払って最高の学びをしにいけば多分?

いや多分、そんなものはファンタジーなのだ、そう思った。

ではなぜお見舞いが嫌なのだろう?この、時間がもったいない感はなんだろう?

何も学ぶものがない時間だと思えるから、もったいないと感じるような気がするけれど、本当にそう?

目の前の母は寝ているだけ、何も起こらない

けれど私も母も、社会の仕組みの中にいる。

この、今いる病院というところも確実に社会の一部分で、いろんな自分の知らない仕事をしている人がたくさんいる。

その人たちを見ることで、その人たちが働くところにいることで、そこから色々感じることで、それこそセミナーなんかでは学べない、ナマの学びができるんじゃない?

この、自分が今生きている社会で、自分も生きていこうとしているんだから。

実際の社会の中にどこにでもある学びのタネ、それに気づくかどうか?それを拾うか拾わないか?なのでは?

この何も起きない病室で私が何も学べないとしたら、最高のセミナーに行ったとしたっておそらく何も学べないに違いない

場所や他人ではなく、どんなに時間やお金をかけたかでもなく、自分がいつでもどこでも必要な学びができるということを信じてみては?
身の回りの全てから、その時何も起こらなくてさえも

特別な人しか知らされない何かがあって、それを手に入れさえすれば!
あるいは手に入れなければ!自分のビジネスがうまくいかない、という考えを辞めてみてはどうだろう?

そう思ったら、なんだかとても落ち着いた気持ちになった。
自分が母に対して費やしたいと思っただけの時間を費やせばいい。

そして私は、お見舞いに行く理由も行かない理由も必要としなくなった

ただシンプルに行こうと思って行く。それだけ

母は亡くなるまでに3回入院し、最後の入院の時には、病院が近いこともあってほぼ毎日、母が寝ていても起きていても30分過ごして帰ってくることを日課にしていた。

母がどう思っていたかはわからないけど、行く、行かないのモヤモヤを感じることはなかった。

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