「実質○○」構文はもうやめにしないか

「××は実質○○」という文章を、主にTwitterでよく目にするようになった。

「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」は「実質攻殻機動隊」と言われていたし、

「若おかみは小学生!」は「実質ダークナイト」「実質ジョーカー」とか言われていたし、

最近だと「ミッドサマーは上田と山田のいないTRICK」などと言われている。

こういった「実質○○」構文はとてもキャッチ―だしとっつきやすい。未見の新作映画について、このような構文で例えられていたら興味を持つ人もいるだろう。しかし同時に「これから作品を見る人」の視野を狭めてしまうのではないか?と危惧もしてしまう。

例えば私は「ミッドサマー」が「実質TRICKだ」と言われる前に鑑賞できたので良いものの、実質TRICKというのが頭にある状態で見に行っていたらどうだろう。

「ミッドサマー」劇中に出てくるホルガという村のヤバさにばかり目が行っていて、いま私が抱いている感想とは違っていたかもしれない(私はミッドサマーについて、もちろん村はヤバいけれども、もっと個人的な傷の問題であったり、それをどう乗り越えるかだったり、ヘレディタリー同様ガワは強烈だけれど身近な問題ともとらえられるのではないかと感じています。あとはホルガ村の美しさやゆったりした描写が良くて、我々もそこにいてあの村での出来事を体験したという感覚になるのが良いと思った)。

ただでさえ、何かの感想を書くときに「○○と比べるとどうだった」「××のまんま」など相対的な評価をする人が多い。「実質○○」構文はこの相対的な評価を強めてしまうのではないかと感じる。

相対的な評価も大事かもしれないけれど、もっと絶対的な感想を個人個人が持っても良いのではないか(むしろそのほうが面白い)と私は思う。これは、私が好きな作品に関して言及した時に「あれは○○をなぞっただけじゃん」などと言われることに対し常に憤慨しているのもあっての考えかもしれないけれど。そういうことを言われると「それはあなたの”知識”の話じゃないか。あなたはこの作品を見てどう思ったの?感想を聞かせてほしい」と思ってしまう。

「Twitterの140字という文字制限の中で、インパクトのある感想文を書こうとするとこうなるのでは」など原因はいろいろ考えられるけど、「実質○○構文」のような分かりやすい当て嵌め・キャラ化などが強まっていると感じる。

もっと映画でも漫画でも何でも多面的なはずで、それを受け止めた個人の考えとか、なぜ面白い/つまらないと感じたのかとかそういう話がしたいのになと思う。

私の好きな映画の一つに2018年公開の『響-HIBIKI-』という日本映画がある。好きなアイドルグループ・欅坂46の元メンバーでありセンターの平手友梨奈さんが主演ということを抜きにしても、素晴らしい映画だ。

この作品の中で主人公の鮎喰響は「あなたはどう思うの」「あなたの意見を聞かせて」と繰り返す。エキセントリックな行動を繰り返す響を追い回し「世間からはこんな批判が…」などと追及しようとする記者に対しては「誰かの話ばかりね。私はあなたと話しているの」と切り捨てる。私はこういう、まっすぐな響の態度にとても惹かれた。

誰かの話がたくさん流れてきて、それにまみれているうちに「誰かの話」ばかりになりがちだなと自分でも思う。もっと、私はどう思ったのかという「私の話」をしたいし、私も「あなたたち一人一人の話」が聞きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?