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ビタームーンの夜

12月の年末が差し迫った寒い日だった。10年来の付き合いのあるA氏と会う約束をした。身体の関係があったのは、最初の一年だけだった。私に魅力が無かったのか、彼の警戒心が強かったのか。定期的にセックスを重ねる間柄には成らなかった。それでも、私は酔うと何故かA氏の声が聴きたくて、いつも電話しては「今度は~いつですか」とまくし立てていた。

A氏は大変頭の切れるヒトだった。顔は決して男前の類では無かったが、いつも冷静にあらゆる事を判断し、手のひらで全てコントロールする姿に美しさを禁じえなかった。今まで出会ったどんな男性よりも、色気を感じていた。決して2人の間に身体の関係が約束されているわけではない。刹那的な自分のものには出来ないもどかしさに美学を感じていた。A氏は労せずして常に私を征服していた。

場所は私がずっと行ってみたかった六本木の高級焼き肉店だった。彼と会う日はいつも日曜日だった。平日は私が仕事、土曜日は彼が仕事。飲食店の大半が休みの日曜日、個室付きのお店を探すのはいつも必死だ。私は自分から言い出した約束にかかわらず、面倒くさい気持ちになっていた。当たり前だ。日曜日の夜は銀座のホステスにとって次の週に備える大事な時間だった。だが、何かの年中行事の様になっていた彼との時間を無くすことは有り得なかった。

A氏は決してぶれない人間だった。だから、酔っていた彼を観た時、真っ直ぐな言葉を聞いた時、純粋に嬉しかった。あの人はいつも完璧だったから。

テレビ番組の忘年会で朝の10時からずっと飲んでいたという。私との約束の時間は19時。あり得ない話だ。

「ごめん。」

会うなりずっとこの言葉を繰り返していた。10年の中で初めて見る姿だった。必死で取り繕うように言葉を重ねていた。私は目の前に起こっている光景を咀嚼する為に、赤ワインを3杯飲みほした。徐々に顔色が悪くなっていくA氏を前に、オーダーした料理にほとんど手をつけずに帰る事にした。店に到着して30分も経過していなかったと思う。どうでも良かった。ただただ心配だった。

外に出てすぐにタクシーを拾った。いつもならば、人目を避けて私を先に車に乗せてしまうのだが、A氏はそんな判断がつかない程に酩酊していた。ミッドタウンの交差点前で一緒に車に乗り込み、A氏のマンションに向かった。恐ろしいほどに冷静な自分が居た。

タクシーの中でA氏の肩に身を委ねてみた。月が光っていた。手をぎゅっと握ってみた。かすかにA氏が反応した。吸い付くように5本の指が交わった。甘く切ない気持ちになった。

初めて身体を重ねた時以来に、久しぶりに心を預けてみた。A氏と私との間にある壁。こんなに触れ合っているのに、私達には”間”が必要だった。それは媚薬だった。永遠に叶わない欲望だからこそ、唯一無二の存在でいられるんだ。

A氏を送った後のタクシーを降りた瞬間、涙が出てきた。寂しかった。一人の時間が。妥協の無い選択の結果だから後悔はない。なぜ涙が出るのかは分かっている。当たり前だ、それは彼を愛しているから。

ハリネズミのジレンマの様に誰もが愛して傷つくのを怖がるけれど、その傷は間違いなくあなたを美しくする。

もっともっと美しくなりたいんだ。A氏の手の届かない存在に。歪んでいても、虚しくても。たった一人で生きる事の孤独を抱えながら、それでも、月を見る度に思い出す。あの日の夜を。

永遠の夜を夢見る様に。



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