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完璧な信号無視

「私のお母さんはね、すごく適当人間で。
私の小さい時なんかは、後ろに私を乗せてるっていうのに、平気で無視しちゃって」

まみちゃんは肩でパッツリと切り揃えられた髪を揺らしながら話した。将来は弁護士とか裁判官とかそういう職業になりたいらしい。

「それはちょっと怖いかもね」

「だからね、私はそういう時、思いっきり声をあげて泣いたの。信号無視は嫌だ。って。だからお母さんとは全く話が合わないの。いつもテレビを見てるはずなのに、政治とか勉強の話には興味ないし、勉強がんばってねって言うけど、それ以上突っ込むこともない。お母さん、ちょっと世間知らずのお嬢様なのよ。」

学校の帰り道、家の方向が同じ私たちはいつも歩きながら話す。
そういうまみちゃんも、生まれてこのかた、電車というものに乗ったことがないと言っていた。それに、普段家族でご飯に行くことが多いまみちゃんは、マクドナルドは数ヶ月に一度の自分のお金で買うご馳走らしい。そういう話を聞いていると、彼女だって十分世間知らずのようだし、実際彼女の家は平凡な家庭と比べると裕福だ。庭付き三階建て一軒家で、お父さんは自営業。お母さんは専業主婦。土地もいくつかもっているらしい。
だから、根本的なところでは2人は同じなのかもしれない。
私はそんなことを考えていた。

「私はたまに信号無視しちゃうけどな。そもそも信号は後でしょ?」
後ろで話を聞いていた同じクラスのみちちゃんが私たち2人の間に割って並んだ。

「え、ダメでしょ!そんなの!赤は止まれだよ!」
まみちゃんは目を見開いて少し声を荒げる。

「でもさ、自然には信号なんてないでしょう。車みたいに早い動物があんなにたくさんいるのに。チーターとか。」

「だって動物はそんなの守れないじゃない。私たち知能の高い人間だから、そういうルールがあるのよ」

「私ね、思うの。信号を待っているとき、目の前には何も車が通っていない。そういう時、私はなんのためにここに立ち止まるのかって」

「急に来ることだってあるのよ」

「もちろん。ただね、この世界はあまりに過保護すぎるのよ。私たちは死ぬときは死ぬし、そういう運命的な衝突っていうのかな、そういうのがことごとく信号みたいな厄介なルールに阻まれる。それにいつまでも守られているって思うからぬくぬくと年老いて、どんどんと弱くなっていく。私たちは知能があるってことにあぐらをかきすぎて、他の動物が持っているはずの防衛本能っていうものをすっかり忘れてしまう。そうじゃない?」

「でも、チーターに信号機は作れないし、わからないよ」
まみちゃんには理解ができなかったのか、少し不機嫌そうに言う。

「理解できないものは、必要がないのよ。まあ、一つ言えるのなら、人間にはそういう未知のものに対する探究心があるってことなのかもね。だから文明がここまで進化した。そして、その文明は私たちの身体の一部みたいなもんなの。私たちは家や、会社や人間社会に守られている。日本国憲法だって、政治だって私たちの体の一部。だからほら、自分の国や政治に無関心な人っているでしょ。そういう人は自分の身体の一部を誰かにアフリカの原っぱに投げられても気が付かない。どうせ守ってくれるから任せるわって。でもね、そうやって自分の身体を遠くに置いちゃうと気づかないうちに、誰かに食べられてしまう。でも気が付かないの。そうやって私たちは知らないうちに自分の身体全て失っていくのよ。それでも無知なら幸せよね」

「なんだか、怖いね」
遠くを見つめて淡々と話すみちちゃんに、私は恐怖を覚えた。
確かにそうだけれど、こんな複雑な世界の全てを知ることはできるのだろうか。私は生きてきて、信号は青で渡り、赤で止まる以外のことは考えたことがなかったし、歩いている途中にいつも見かける「大泉 いちこ」と書かれたポスターに映る感じのいいおばさんのことも知らない。私の身の回りにある、関わる全てのことに対して無関心すぎたんだ。




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