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メッシュワークゼミナール #1

これから半年間、メッシュワークゼミナールに参加することになりました。
備忘として、ゼミで得た気づきや感じたことを記していこうと思います。講義のメモは別に取っているので、noteでは「自分がどう感じたか」を軸にアウトプットしていく予定です、できるかぎり!
メッシュワークゼミナール第2期「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」受講生募集 (meshwork.jp)

ゼミの内容

  • 受講者の自己紹介

  • 主催者(水上さん、比嘉さん)の自己紹介

  • 今後のゼミについて

所感

そもそも、なぜゼミに入ったのか

私がこのゼミに参加したきっかけは、主に二つある。

一つ目は、主に仕事に対する行き詰まり感をここ数年感じているからだ。社会人になってから、「なんの仕事をしているんですか?」と聞かれたときに、「自分の仕事は"これ"です。」と胸を張って言うことが一度もできないままである。今の環境は恵まれているという自覚がある一方で、長いこと閉じた場所(机上、会議室、社内など)にいる感覚で、働くことを通じた外側への手触りが足りていない。
このような場合、通常であれば環境を変えること(転職など)をすると思うが、それでは現在の延長線上の未来しか見えなかったため、いっそ自分の興味が向くままに彷徨ってみるのもいいかもしれないと思ったのが一つ。

二つ目は、アウトプットへの苦手意識を少しでも克服したいからだ。
私は映画や音楽、アートなどの表現に触れることが好きだ。作者の感情や思考のプロセスを、作品を通して覗く行為、そして覗くことによって自分の何かが変容していく感覚が好きなんだと思う。その一方で、今まで自分で何かを表現したことはなく、なんとなく苦手意識がある。
今までインプットという形で文化人類学に触れたことはあったが、文化人類学を使って何かをアウトプットをしたことはない。メッシュワークゼミナールはリサーチの結果を最後にアウトプットする点、またそのアウトプットの形式が定まっていない点が魅力的だった。

遠いようで近いような人類学

前置きが長くなったが、初回のゼミに参加した感想は「よくわからない」だった。
いや初回から寝てたのかよ、と思われるかもしれないが、ずっと起きていたはずだし、ずっといろいろなことを考え続けていた。(4時間終わった後どっと疲れを感じた。ゼミ後のビール大変にしみました)けれど、考えれば考えるほどに、文化人類学がよくわからない。
ていうか、そもそも人類ってなんだろう。知っているようで知らない人類。私って人類なんだっけ、もはや。

水上さんの自己紹介では、『フィールドワークという経験を通して、自分の持っている言葉では知覚できない現実が存在していること、その事実に気がつくには自身の「ものの見方」を自覚し、現実を丁寧に言語化していくことが必要であることに気がついた。』というエピソードをシェアしていただいた。「自分の持っている言葉では知覚できない現実」、いわゆる想定外は何も遠くの国へ行かずとも、私たちの身近に溢れている。普段は「ものの見方」を固定しているために見逃してしまっていることがおそらくたくさんあるのだろう。

また、比嘉さんの自己紹介では、インゴルドの『知らない状態でありながらも注意深くあること:Not Knowing and Paying Attention』を引用しながら、自らが経験したフィールドワークでの『コンフリクト』の経験を振り返り『「失敗」は状況と関係性においてしか定義されない』『失敗か成功かという判断を与えることが、それらのなかに内包される重要な気づきを手放すことにつながっている可能性がある』こと、『自分のコントロール不可能な領域や、想定外の物事への向き合い方、付き合い方を考えることの重要性』に関してご説明いただいた。
実際に、私たちを取り巻く環境は「失敗」に対して不寛容になっているというか、自己責任論が主張を強めているように感じる。最近不思議に思ったのは、AIの失敗には寛容なのに人間の失敗には不寛容だということだ。ChatGPT等の生成AIの失敗、例えば思ったような回答が得られなかった場合は「聞き方が悪かったのかもしれないからプロンプトの内容を変えてみよう」というように次の機会を作り出す試みをするのに対して、人間が失敗した際には時に容赦なく機会をはく奪することができてしまうのはなぜか。人は誰しも関係性の中に生きているならば、自己責任論には限界がある。自己責任論は、ある枠組みから、あるいは特定の地点からしか事象を見ていないがために発生するのではないかと感じた。

初回のゼミ後、次回までの課題図書であるインゴルドの「人類学とは何か」を読みながら、文化人類学は揺れを捉えようとする試みなのかもしれないと思った。一般的に、科学また科学に基づいて構成されている現代社会において揺れは排除されることが多いように思う。実際、働いていると「これです」と一つの明確な解を提示できる人は"強い"と思う。けれど、私はそのようにふるまうことに抵抗を感じる。一つの解に決めてしまうことは、同時に自分の首を絞めているようで居心地が悪い。

今はまだ文化人類学が「よくわからない」し、おそらくゼミを終える頃にも理解できていない気が正直しているが、「よくわからない」という揺らいだ状態のままで他者を真剣にわかろうとする取り組みにこのゼミを通じて挑戦してみたい。わからないことを「他者」と括り端から自らの外に置いた場合と、「他者」の内側へ入り込みわかろうとする試みを経た場合とでは、同じ「他者」でも見え方がきっと異なっているはずだ、と講師陣の自己紹介を聞きながら感じた。

おまけ

初回ゼミの翌日、現美で開催中の「デイヴィッド・ホックニー展」に行ってきました。
「ものの見方」というテーマがゼミの内容と重なる部分もあって、とても楽しく心惹かれる展示でした。
ホックニーが描いた椅子に座ってみたいなあ。。
デイヴィッド・ホックニー展 | 展覧会 | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO (mot-art-museum.jp

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