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231:エキソニモ《On Memory》の曇りガラスと存在の濃度と空間の意味

WAINTINGROOMで,エキソニモ《On Memory》を見る.撮影は禁止されている.メモは禁止されていないが,作品の意図を考えると,展示会場でメモを取るのはやめようと思う.記憶だけを頼りにレビューを書いてみる.

エキソニモの《On Memory》のオブジェクトに曇りガラスが使われているのが,良かった.自分の考えに引きつけると,私はエキソニモの作品「Sliced」シリーズを考えているときに,瞼を閉じている状態がとても気になった.瞼を閉じていても,光は網膜に届くわけだから,世界を見ていないわけではない.瞼を閉じると,世界を構成するオブジェクトの輪郭は失われるが,世界があることは感じられる.世界があるという必要最小限の情報が,瞼を閉じた私に届き,光の濃淡で示された単調な世界が私の視界の締めることにある.

《On Memory》を見て,あとで,作品を思い出そうとするとき,瞼を開けて記憶を辿ることもあれば,瞼を閉じて記憶を確かめようとしていることもある.記憶の「細部を見よう」とするときは,瞼を閉じていることが多い気がする.オブジェクトの一部や書かれた,入力された文字列がなんだったかを思い出そうとするときは,自然と瞼を閉じて,単調化した視界に会場で見た作品を重ね合わせて見ようとしている,瞼を開けていても,作品のことは思い出せるけれど,細部を伴わない漠然とした感じとして体験できていない気がする.それは曇りガラス越しに見るオブジェクトでもない.もっと漠然としている.

曇りガラス越しに見るマウス,ぬいぐるみ,花のようなもの,ケーブルはぼやけているが,その輪郭は認められる.だから,「マウス,ぬいぐるみ,花のようなもの,ケーブル」と書ける.でも,曇りガラスがあるので,私と私の属している世界とがつくっている視界において,一枚向こう側にある感じがする.「瞼」のように私と世界との間に一枚の膜が挟まる感じがある.瞼を閉じて思い出すとき,オブジェクトは瞼のこちら側に現れて,その際は曇りガラスがオブジェクトと私とを分けている感じしないで,曇りガラスを含めて,オブジェクトが一つの全体として,私の意識に現れて,瞼を透過してきた光がつくる視界の一部を占めるようになる.

オブジェクトに使われたのが透明のガラスだったらどんな感じだったのだろうか.オブジェクトを見ているときに,全てが同じレイヤーにあって,「向こう側」を意識しない感じがする.曇りガラスがあることで,ディスプレイとマウスやケーブルなどのモノ
との関係が,「手前と奥」から「こちらとあちら」という感じでレイヤーが明確に分かれることになったと思う.意識的に瞼を閉じることで,世界から,自分の意識から,そして,自らの視界を世界との連続性と切り離すように,曇りガラスがオブジェクトを構成するモノとディスプレイとの重なりに明確な境界をつくり,切り離す.そして,モノと切り離されたディスプレイが示す文字列が,ヒトの意識にダイレクトにモノとのリンクをつくってしまう.曇りガラスの向こうの「マウス,ぬいぐるみ,花のようなもの,ケーブル」は鮮明に見えないけれど,文字列が示す意味と絡み合って,確かな存在感というか,そこにあるということの必然性を示してくる.それは存在に濃度があるとすれば,存在の濃度が高まって,鮮明さを増した状態と言ってもいいのかもしれない.おそらく,透明なガラスだったならば,「マウス,ぬいぐるみ,花のようなもの,ケーブル」の存在の濃度は,文字列と絡み合ってもあまり変わらないというか,そもそも存在の濃度が高い状態にあるから変化しないから,文字列の影響を受けずらいのではないかと思う.

このように書いている今の私は,ディスプレイに表示されていた文字列をほとんど思い出せないでいる.それでも,作品を見ているときに感じた曇りガラスとモノと文字列との重なりから生じた,それぞれの存在が絡み合って,オブジェクトとしての濃度が上がり,さらには,そのオブジェクトまでの言葉の意味も重なることで,目の前のオブジェクトの存在の濃度がより上がり,さらには,《On Memory》を構成する空間全体の存在の濃度というとわかりづらいが,空間を意味づけている意味の濃度が上がっていった体験は思い出せている.

というのも,壁に書かれた,そして,ディプレイに表示された文字列は,ヒトとコンピュータとの関係,今だと,ヒトとAIとの関係を想起させるものであって,しかも,読んでいると,ヒトがコンピュータに呼びかけていると思ったら,コンピュータ=AIがヒトに語りかけているように思えたりと,語り手が誰なのかと言うことが揺らいできて,
展示空間全体が,物理空間なのか,情報空間なのかが混じり合ってくるような感じを,私は受けたからである.最終的には今のこの空間を,物理空間なのか情報空間なのかを決めることは問題ではなくて,それらが混じり合った空間として感じていこうという意味の流れがあると,私は考えているのだが,その意味の流れに置かれた7つのオブジェクトが意味の流れのなかでそれ自体の存在の濃度を上げていき,最終的に,空間自体の意味の濃度が上がった状態を作品を体験した人の記憶に与えているのではないだろうか.その記憶とともに再度,作品を考えたときに,前回のレビューで書いたようなブロックチェーンに刻まれたHTMLが示す[      ]とそこで明滅するアイビームの存在の濃度が上がって,私の視界に重ねられたアイビームが黒背景をバックに明滅を続けるのである.

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