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201:陳腐化したのは,実はその時代に生きていた人間性の方であり,それを回顧的に反省しかできない人間の不自由さである

道具は壊れ,あっという間に陳腐化する.10年前の携帯電話やビデオテープ,パソコンのOS等は古すぎて見る影もなく,CDでさえ時代遅れになりつつある.人間はいまだにこの道具の代謝の速度感に順応できずにいる.だからこそ陳腐化し,動かなくなった装置や設備に死の余韻を感じ取り,それ自体がアートのテーマにさえなる(例えば山口情報技術【ママ】センターにおける「メディアアートの輪廻転生」展).しかしその時人間は自らがオワコンであることをまさに道具に重ね描かざるをえない.陳腐化したのは,実はその時代に生きていた人間性の方であり,それを回顧的に反省しかできない人間の不自由さである.それに対してテクノロジーは死なず,機械は過去を顧みないまま離散的に新たな存在になり続けていく.オートポエティックに道具は指示と使用のネットワークにおいて稼働し,他の道具に働きかけるものであり,そうしたテクノロジーの展開と使用に貢献しない装置や機械はすでに道具というシステムの外部となる.pp. 122-123

『iHuman AI時代の有機体−人間−機械』の「第4章 道具:「ポスト・ヒューマン」以後…………稲垣諭(現象学/環境哲学)」からの引用.引用文は「オワコン時代の人間と機械」という節に書かれていた.

「陳腐化したのは,実はその時代に生きていた人間性の方であり,それを回顧的に反省しかできない人間の不自由さである.それに対してテクノロジーは死なず,機械は過去を顧みないまま離散的に新たな存在になり続けていく」と言う部分は,メディアアートを考えていく際に重要なのではないかと考えている.

ヒトの感覚が時代に取り残されていき,テクノロジーは次々にあたらしくなっていく.メディアアートをつくるヒト,体験するヒトは,その時代の「人間性」に縛られている.その「人間性」はヒトとテクノロジーとからなる合成的志向性と世界とのあいだでループし続けるデータから成り立つ.

作品の体験者のみならず,スマートフォンのユーザも,手元の装置を介して,自分と世界とのあいだでデータをループさせているあいだにテクノロジーだけが先に行ってしまう.手元にあるのは慣れ親しんだ作品やスマートフォンであってあっても,それを構成するテクノロジーと世界側のテクノロジーが変化して,データのループに変化が起こっている.しかし,多くのヒトはそのことに気づかない.それは,インターフェイスの向こう側で起こっているデータの流れで体感できない.そうして,気がつくことなく,全く異なるデータのループをしていることになる.

このように考えると,稲垣が書くように自分が「オワコン」だと気づければいいが,マーク・ハンセンが「21世紀メディア」とするデータの流れをつくるメディアにおいては,手元の道具とテクノロジーが陳腐化していることに気づくこともなく,そして,私たち自身も「オワコン」のまま生活をしている時代になっているのではないだろうか.


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