見出し画像

177:一周回って,インターフェイスがつくる錯覚を「正直」にモノとして捉える態度になった

多摩美術大学 美術学部 情報デザイン学科 メディア芸術コース 2019年度卒業制作展「Skippp...p」のオンライントーク「インターフェースは『正直』か?」に,菅俊一さん,時里充さん,久保田晃弘さんとともに参加した.

そこで「インターフェイスは『正直』か?」という問いに「インターフェイスは『錯覚』です」と応えた.しかし,「錯覚」というのは,久保田さんがいうように「デスクトップ・メタファー」のときから始まっていることで当たり前であった.トークを振り返ると,「インターフェイスは『錯覚』です.そして,この『錯覚』がモノの根本的な部分を構成している」と言うべきことだったと思う.インターフェイスを構成する「錯覚」はモノの「メタファー」から生まれてきたのだが,「一周回って」,その「錯覚」こそがモノそのものなのではないか,と考えている.

画像1

「一周回って」と言うのは,久保田さんが川部紅美さんの《悪女(わる)》に見られるようなメッセージは「昔から学生が考えていること」であるが,それが「一周回って,正直に表現されている」と言われていたことことが印象に残っていて,それが「インターフェイス」と「モノ」とのあいだにも言えるのではないかと思って,使ってみた.

モノのメタファーであったインターフェイスが,一周回って,インターフェイスがメタファーとして表示していた「錯覚」がモノそのものになっている.この意味では,インターフェイスは「正直」なのかもしれない.モノであることが「正直」であるかは別にしても,「錯覚」という「騙す」というような否定的な要素が,「錯覚」を肯定的な要素として考える点は,「正直」と考えてもいいだろう.

このようにインターフェイスの「錯覚」こそがモノの根本的な部分だと考えてみると,臼井達也さんの《キャッチアンドリリース》は,インターフェイスそのものがモノとして見える瞬間を作り出すという点で「正直」だと言える.さらには,ディスプレイに貼られた平面のカエルが立体に見えたり,画面の向こう側で描かれるサインが突如こちら側に貼り付けられたような感じなど,鑑賞者に「錯覚」させるのだが,この「錯覚」に強さがあり,そこに作品が「インターフェイス」から「モノ」になる契機があると思う.

臼井さんは「画面は水面のような境界面として機能し、触れることのできるもの」と考えている.それは,戸田ツトムのディスプレイについての考えと似ているところがあるとともに,「一周回った」感覚であるようにも思われる.

「風景」のあり方はコンピュータのディスプレイのあり方に酷似している.このディスプレイという,現実もなくただの想像でもないメタファが雑居する風景とは一体何か? 誤差や遅延をそのアリバイとし,対象と非対象との分別さえもない,一律にしてゼロ次元のスクリーンはまさしく現実のなかに差し挟まれた実質のまったくない風景と同じである.
その背後にある何らかの存在の歪みとユーザー自身の偏奇が干渉しあい発生させたモアレのような干渉縞,それがディスプレイそのものなのだろう.したがってディスプレイはまさに生物を見る視線,物体ではなく環境と捉える視線が発生させた風景なのである.いうまでもなくそこ,ディスプレイという水のような風景には何らかの「自己」が屈折しつつ投影されているはずだ.p.36

戸田は「ディスプレイはまさに生物を見る視線,物体ではなく環境と捉える視線が発生させた風景なのである」といっているが,「一周回って」,ディスプレイを「環境」と錯覚させた先に文字通りモノとして捉えるようになっているのではないだろうか.

メタファーを経由したインターフェイスを,メタファーの錯覚込みで,さらに,その錯覚こそをモノとして捉える「正直」な態度があるとすれば,「インターフェイスは『正直』か」と問われたら,「正直」と答えるのが作品が制作された2019年の態度だと,私は考える.そして,その態度は,新型コロナウィルスの影響で多くの人がディスプレイと向かい続けるようになった2020年以降にさらに強くなっているように思われる.

という意味で,私は2019年以前にインターフェイスについて考えていたことが,2020年以降にその傾向が強くなることはあっても,質的には変わっていない感じがしている.久保田さんがトークの最後に参加者にふった「2020年での変化は?」という問いに「変化はあまりない」と応えたのであった.

1年越しに卒展をするのは素晴らしいし,そこでトークさせてもらってとても楽しかったです☺️ 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?