見出し画像

170:「現われる」に強制アップデートをかける

「現われる」から考えることが大切かもしれない,ということを哲学者の田口茂の以下のテキストから考えた.

このように、「現われ」は、「主観的か客観的か」という二者択一的な問いには馴染まない。むしろ「現われ」とは、それ自体が「媒介」そのものであると考えられる。主観的なものと客観的なものとがまずあって、しかるのちにそれらが関係するようになるわけではない。「現われる」ということがまずあって、その「現われる」という事態のなかに、ほかならぬ客観的な物が姿を現わすと同時に、それを体験する働きも含まれているのである。「現われる」というただ一つの事態のなかに、主観と客観は最初から相互に媒介された仕方で見出される。「現出」(Erscheinen)というただ一つの媒介的事態の構造契機として、はじめて主観的なものと客観的なものとが、互いに対する差異を通じて固有のあり方を獲得する。
媒介論的現象学の構想,田口茂

「現われる」ことはテクノロジーとともにアップデート可能かもしれない.「死」という現象にアップデートできないが,「死」の「現われ」はアップデートすることが可能かもしれない.

現実の世界における死は取り返しのつかない悲劇だが、ここでは標準的な物理シミュレーションとして実装されていて、それは再現可能な「機能」になっている。物理シミュレーションは現実を模倣するものだが、私たちが住む世界は物理シミュレーションと似ているだろうか。

物理シミュレーションの世界で「死」を「機能」として実装してしまい,それを幾度も体験していくなかで,私たちの住む世界が物理シミュレーションと似ていき,「死」の「現われ」がアップデートされていくこともあるのではないだろうか.

「死」という体験だけなく,「手」という私たちの身体の「現われる」もまたアップデート可能なのではないだろうか.

「手」というミチミチのモノにスカスカの情報を重ねていって,情報が身体に浸透していって,その「現われ」をアップデートしていく.これまでは,ミチミチの身体やモノが優勢であったけれど,スカスカの情報の操作の精度が上がってくることで,この二つの関係が変化していっている.その結果,この二つの関係から立ち上がる「現われる」ことがアップデートしている.正確にはモノと情報自体の変化ではなく,モノ的見方と情報的見方との関係の変化によって,モノと情報との関係が変化していっている.これまではモノと情報とが1対1対応であって,モノと情報とが同一の存在として重なり合っていた.しかし,エンゲルバートが示した「ビューコントール」のように,一つの情報を複数の方法で具現化できるようになる.情報は一つだが,具現化されたモノの状態は複数ある.そして,一つの情報と多数の具現化されたモノとの関係とをそれぞれ結びつけるなかで「現われる」がアップデートしていく.そして,谷口さんの作品や小鷹研究室の実験は,「現われる」に強制アップデートをかけているのではないだろうか.

追記:2020/11/28
一つの情報に対応した多数のモノと考えては「現われる」を捉えることはできないのではないだろうか.一つの情報に対して複数の「現われる」が可能になったと考える方がいいであろう.そして,この「現われる」のもとで主観と客観とが結ぶけられ,体験が生まれる.

このように考えると,『ボディジェクト闘争』は「現われる」をアップデートした結果,主観と客観との高速の入れ替わりによる闘争が起こっていると考えられるのかもしれない.

そして,田口さんのように「現われる」を考えたり,「情報」を起点に考えたりすることを可能にしているのは,私たちのインターフェイスを介したコンピュータ体験なのではないか.情報を操作していくなかで,情報に対しての体験が蓄積されていくなかで,「情報」や「現われる」のような主観でも客観でもなく,主観にも客観でもあると言えるような存在(主観にも客観にもなれる存在)に対する感覚の精度がヒトのなかで上がってきたのではないだろうか.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?