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136:「物」は「風景」の中の「物」でしかありえない?

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目の《景体》は,物体と風景とのあいだ行き来しつつ,バルクとサーフェイスとのあいだも行き来する.というよりも,バルクを強く意識させて,「海の景色」を物体の集積を一つのサーフェイスとして捉えた景色のままではなく,バルクとサーフェイスからなる一つの物体にしてしまっている.ゆえに,それは物体であり,同時に,景色でもあるから,見る者の感覚に混乱を与えている.「海の景色」が物体となるために,展示室の空間に収まるように海はスパッと切断されている.目の前に広がる海の景色は,展示室を埋める物体となり,展示室の中で「海の景色」となっている.

哲学者の大森荘蔵は『物と心』の中の「宇宙風景の「もの−ごと」」という章で次のように述べている.

しかしそれにしてもなお,「物」と「こと」,「物」と「事態」,「物」と「事件」,「物」と「状態」,こういった対比がいかにも自然に感じられるのはなぜだろうか.それに対して次のような答えがまたいかにも自然に感じられるのである.すなわち───事態,事件,状態,こと,といったものは重さもなければ持ち運びもできず色を塗ることも縦横の長さを測ることもできない,そういった何「もの」かであり,だから「物」とは全くカテゴリーを異にする「もの」なのだ,と.位置No. 3365/6008 

大森はこのあとで,「物」と「事態」との対比をときほぐし「「物」も「こと」もともに宇宙風景の「ものごと」なのである」とまとめていく.大森の言葉から《景体》を考えると,この作品は「物」としての「海」と「事態」としての「海の景色」とを扱っていると言えるだろう.目は「海」と「海の景色」を対比せずに一つの「ものごと」として《景体》という作品にまとめていると言えるだろう.

一足飛びに結論に至ってしまったが,その前に大森による「物」と「風景」との対比のときほぐしから,《景体》を考えてみたい.

「富士山」という名を唱えられて富士が立ち現れる.この立ち現われた山が「物」であることには間違いない.しかしその富士山は虚空の中で宙ぶらりんになって立ち現われはしない.日本列島からそぎとられて宇宙空間に浮かぶ富士が立ち現われるのではない(だがそのような立ち現われがありえない,というのではない.元に今私はそのような宙吊りの富士を言い現わそうとしたばかりである.だがそれは非現実の架空の富士の空想的立ち現われであって,現実の富士の想起的立ち現われではない).現実に立ち現われる富士は裾野に拡がり湖を点在し他の山々に続き空を背にして海を前にした富士である.ということは,そこに立ち現われたのは一つの風景である,ということである.この風景の中で富士はいわばスポットライトをあびて立ち現われ,その風景を圧倒的に支配している.富士をめぐる風物はそのスポットライトの影にかくれてただ闇のようにひっそり拡がっている.しかしそれにもかかわらず,それは富士を富士とする不可欠の「周囲」であり,この「周囲」がなくては富士のみならずすべての「物」が「物」ではありえない.「物」は「風景」の中の「物」でしかありえないからである.位置No. 3373/6008

大森の考えに沿ってみると,私たちは「海」を思い浮かべたとき,「海の風景=景色」をまずは思い浮かべ,その後,スポットライトを当てるところを変更していくことになる.そこで,大森は強調して「「物」は「風景」の中の「物」でしかありえない」と書いている.《景体》は「景色」であり「物体」である.「景色」から切り出された=スポットライトを当てられた「物体」であるという点では,《景体》は「「風景」の中の「物」」である.しかし,同時にそれは「景色」のままであることが目指されている.大森は「「物」も「こと」もともに宇宙風景の「ものごと」なのである」と書いており,「物体」と「景色」とが異なる存在ではなく,同じ「ものごと」であると考えている.だとすれば,「物体」と「景色」とが同時に成立する「ものごと」として《景体》が提示されていると考えればいいだろうか.しかし,大森は「物」と「こと」は「ものごと」という同一の存在として現れるとしても,これらが同時に現れるとは言ってない.「ものごと」として現れるとしても,「海」という水が集合した「物体」と海の「景色」といったものは同時に現れることはできない.同一の存在であっても,同時には存在することができない物体と景色としての海が同時に存在しているように見えるがゆえに,《景体》は見る者に不思議な体験を与えるのであろうか.

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