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236:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える03──2章 見えている

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



2章 見えている

1 「見えている」という場

私が見ている視界を一つの「状態」として捉えてみる.私が見ているのではも,世界が私に光子を与えているのでもなく,「見えている」という場に私がいて,世界がある.私と世界とを含んだ「見えている」という場の状態が変化していて,私はその中にいる.その状態の変化は私の変化でもあるし,世界の変化でもあり,その境界は曖昧なものになっている.「見えている」という場の状態をつくっているのが,予測モデルということになるだろうか.いや,予測モデルが「見えている」という場の状態として考えたほうがいいと思う.私と世界とのあいだで予測モデルが構築され,そのモデルの状態の変化によって,私が見ている視界の状態が変わる.

それらと同様に,私に今或る風景が見えている,このことは能動的動作でもなければ受動でもない.単に「見えている」状態にある,それだけである.しかし,生理学者は,私に何かが見えているのは,それからの電磁波が網膜を刺戟しついで大脳皮質細胞を興奮させる結果である,と言うだろう.この言い方には誤りがあると思うが(六章),その正誤とは別に,それは再び因果物語りの文脈の中での話であって,「見えている」ということそのこと,の中での話ではない.また,いやそんな面倒な事は抜きにしても,今何かが「見えている」のは私が目を開きそちらを「見ている」からなのだ,と思う人もあろう.しかし,それもまた因果物語りであることは明らかであろう.目を開く,目を向ける,見つめる,目をそむける,目をそらす,焦点を外す,注意しないように注意する,これらはすべて有意的動作である.そして,私に何がどのように(例えば,はっきりととか,ぼんやりととか)「見える」かはそれらの動作によって変わることも確かである.しかし,何かが或る仕方で「見えている」そのこと自身は何の動作でもない.何の受動性でもない.それは単に一つの「状態」なのである.p. 46 

私が「瞼」について考えていることのソースは「目を閉じたところでこの状態が消失することはない.私には今度は瞼の裏が見えている」にあったのかもしれない.以前読んだときにここにハイライトを引いていないけれども,読んだことは確かなので,私はここから瞼の重要性を考えるきっかけを与えられているのかもしれない.瞼を閉じていても何かを見ていて,「「見えていること」を遮蔽するものではない」ということをもっと考えないといけない.瞼を閉じると,私はそこに何かの像を認知できなくなり,単調なRGBのモザイクが広がるの見ているという状態になる.RGBのモザイクが視界を満たす状態として,私と世界とを取り囲むようになる.それは,私の網膜の細胞の状態が可視化されているということではなくて,私と世界を含んで構築されている予測モデルにおける視覚世界がその状態となって,視界に現れているということになる.瞼を閉じると,網膜に届く光の状態は変わるが,その状態の変化が視覚世界の現れを変えるスイッチとして機能する.瞼を透過してくる光のパターンが視覚世界の現れを別のパターンに切り替える.視覚世界は同一の場所や座標においても,複数の状態を持っていて,同一の座標は複数の状態とリンクしていて,それらを切り替えながら視界を形成するようになっていると,私は大森のテキストをもとに考えるようになった.

この,何かが見えているという状態は私が目覚めている限り,一刻といえども中断することがありえない状態なのである.目を閉じたところでこの状態が消失することはない.私には今度は瞼の裏が見えている.それは,部屋のカーテンを引けば窓外の風景が見えなくなるかわりに,カーテンが見えることになるのと全く同様で,肉質のカーテンが見えるだけのことである(たとえ,文字通りには瞼の裏が見えているのではないにせよ,何か薄明りの風景が見えていることには間違いない).瞼はカーテン同様,その向こう側にあるものを遮蔽しはするが,「見えていること」を遮蔽するものではない.鼻をつまんだり,耳に蓋をすることが,何か特定の匂いなり音なりを遮断することではあっても,嗅いだり音が聞こえること(無臭や静けさを含めて)を遮断するものではないのと同様である.何かが「見えている」こと,何か(静けさを含めて)が「聞こえている」こと,何か(無臭を含めて)が「匂っている」こと,これらはすなわち私が「目覚めている」ことなのである.だから,「何も一切見えない」という状態を私は想像することはできない(想像,とは目覚めてするものである).それは,何か一つの物,例えばこの机が一切の色なしに「見えている」ことを想像できないようにである.だから,また私は先天盲の視野を想像することができない.それを「全き闇」と想像するならば,それは目明きの「闇」の想像で盲者の世界の想像ではない.私が想像すべきものは「視野の全き欠落」の想像であろう.しかし,私にはその想像すら想像することができない(だが,先天盲の人にも「まっ暗な」視野があるのかも知れない.それは開眼した先天盲人の記憶が証言するだろう).p. 46

見えている風景から「私に何か「見えている」という状態を引き剝がすこと」はできない.私の視界は私が今見ているものだと言いたくなるが,その視界を構成している視覚世界は生まれてから中断することなくなく行ってきた私と世界との相互作用からできている.私だけ,世界だけをそこから引き離すことはできない.視界としてその一部が切り抜かれている視覚世界には,私の状態のパターンと世界の状態のパターンとが絡み合って,あらたなパターンをつくっているため,それらを引き離すことなどできない状態にある.私と個別の世界とを引き離すことはできるかもしれないが,視覚世界を一度持ってしまうと,私と世界とを見えているという場から引き離すことはできない.真っ暗の空間に連れて行かれたとしても,視覚世界を切り抜いて,私は何かが現れる視界を体験する.その体験に真っ暗の空間という状態が入り込み,視覚世界の状態が変わり,あらたに視界として切り抜かれるようになる.ただ,その際に生物学的に備わっている視野というフレーム・ベゼルの機能が見えにくくなってしまう.真っ黒な視覚世界の一部が切り抜かれるが,世界の状態も真っ暗なので,その境界は見えない.いや,ここも見えないというよりは,視界が真っ黒に単調化されている状態として現れているので,そこに何かしらの認知的差異を見出せずに,世界の広がりを視覚的には見出せなくなると言ったほうがいいのかもしれない

またまた,「見ている」という何か動作的な思いが顔を出したのだ.しかし,例えば一つの部屋が「見えている」状態を端的に眺めてみよう.壁が,本箱が,机が,「見えている」.この部屋の風景がそこに立ち現われている,すでにそのことが「見えている」ということのすべてなのである.だが人はその壁や本箱の姿から,私の状態,私に何か「見えている」という状態を引き剝がすことができるように思いがちなのである.そして,その引き剝がした「見えている」という状態を,何か動作的あるいは作用的な「見ている」という言葉で言いたくなるのだ.しかし,そのような引き剝がしは,どだい不可能なのである.「痛み」とその痛みを「感じる」ことを引き剝がすことができないのと全く同様,「壁の姿」とそれが「見えている」ことを引き剝がすことはできない.見えていない壁の姿などはどこにもないからである.だから,壁からそれが「見えている」ことを剝ぎとって,「私の状態」とすることはできない.p. 48

「見えている」という全体的な状況・場が,私と世界との相互作用の結果としてつくられ続ける予測モデルだと考えてみる.予測モデルの視覚ヴァージョンを視覚世界と読んでみる.「見えている」ということは,視覚世界をつくり,更新し続けることである.私は世界のなかで動き続けて,視覚世界を更新し続ける.そして,視覚世界という「「場」の中においてのみ,ここの私とあそこの絵,あるいは目をそちらに向けている私とあそこに「見えている」絵,という「関係」が成り立ち」,その関係を含んだ視界を私は見ていることになる.絵画やテレビを見るということは,視覚世界を視野で切り抜いて,私が見ている領域を覆っている視界をさらに額縁やベゼルといったフレームで区切って,一つの関係を成立させることだと考えられるだろう.私は世界と共にあり,一つの視点であり,世界ととの相互作用で更新し続ける視覚世界を生物学的に備えている視野で切り抜いていく.その際に,世界と視覚世界の座標をリンクさせて,二つの世界を重ね合わせる.世界と視覚世界は共に私を覆う存在である.私は世界と重ね合わされた視覚世界を視野のサイズで切り抜いて,視界として見てながら,世界を認知し,行為をしていく.このとき,私が見ているのは世界そのものではなく,視覚世界である.

ミシェル・フーコーの『言葉と物』によって一躍有名になった,あのベラスケスの「侍女たち」の絵に,ゴーチェは「額ぶちはどこにあるのだ」と言ったということである.「見えている」ことにも額ぶちはないのである.それは私を含め,私をとりまいての全風景が「見えている」ことであって,それを壁にかかった一枚の絵とか映写幕とかテレビ画面とかとそれを「見ている」私といった,「見えている」全状況の卑小な一切片に模して考えるのが誤りなのである.「見えている」という「状況」は私自身を取りこみ,私を包みこんでの風景が「見えている」ということなのである.それは一つの全体的「状況」であり,全体的「場」なのである.この全体的「場」の中においてのみ,ここの私とあそこの絵,あるいは目をそちらに向けている私とあそこに「見えている」絵,という「関係」が成り立ちうるのであって,それを成り立たしめている「場」である「見えている」という状態は何の「関係」でもないのである.p. 49

2 視覚的立ち現れ

「思い的」立ち現われ(「思われた」立ち現われ)」は,意識に一度構築された世界の予測モデルと考えられるだろう.生まれてからいまの今までずっと更新され続けている私の予測モデルは,私が見たことも聞いたこと触れたこともない何かも普通に現われる.私が世界をこれまで体験してきた総体の予測モデルは未知の何かも予測してしまう.予測モデルは世界のコピーではないから,何かしらがトリガーになって,その状態と近いに何かを予測する.映像が現れ,インターネットが現れ,生成的AIが現われる共に,私やあなたの予測モデルから立ち現れる「思い的」立ち現われのパターンは増えていると考えられる.それは,いつかどこかでそれに近い何かの知覚的立ち現れを体験しているから.視覚的立ち現れに関しては,それが顕著であり,知覚的体験のパターンの総量のバランスを崩すているとも考えられる.視覚的立ち現れの体験が予測モデルを歪なものにしているのかもしれない.

バークリィの「存在とは知覚なり」はこの混同のあからさまな自己顕示なのである.しかしわれわれはもっと気楽に穏やかに,「非知覚的存在」の意味をただ認めればそれでよい.私の背中,私の内臓,屋根裏のガラクタ,地中の虫,パリの地下鉄,月の裏側,こうした様々な「見えていない」事物の存在をわれわれは何のこともなく了解している.それらの物は「見えていない」,つまり視覚的には存在していない,しかし「考えられ」「思われ」て存在するのである.それらは「知覚的様式」での存在ではないが,いま一つの存在様式,「思考的様式」での存在なのである.換言すれば,それらは知覚的には立ち現われてはいないが,思い的に立ち現われているのである.そして,これらの思い的立ち現われの真偽,つまり実在するものか,せぬもの(思い違い,空想等)かはここでは問題ではない.偽なる立ち現われも真なる立ち現われといわば材質を等しくする.「容姿」の違いはないのである.「思い的」立ち現われ(「思われた」立ち現われ)が真だというのは,原理的にはそれがまた「知覚的」にも立ち現われうる(または,えた),ということであり*,偽だというのは,それがただ「思い的」に立ち現われるだけで「知覚的」には立ち現われない,ということなのである.ここで「知覚的」ということは原則的には,「見え」,「触れ」,「聞こえる」,等のすべてをいう.だが前章に述べたようにこの中で「触れること」が最も基底的であり,単に「見え」,「聞こえる」が「触れ」えない立ち現われは,幻視とか幻聴とかと呼ばれる.それゆえ,「真偽」とか「実在」とか「架空」とかという言葉は,さまざまな立ち現われの組織的分類のための分類名なのである.p. 53

ある時点までの情報からある場所を想起したとき,知覚的立ち現れによる制約を持たない「思い的」な場所が立ち現れる.それは知覚的立ち現れからの制約はないが,その時点までに更新され続けていきた予測モデルから立ち現れの制約を受けている.実際の知覚との比較ではなく,これまでの予測モデルとの思い的的立ち現れのあいだの誤差が計測され,修正されていく.予測モデルは常に知覚的立ち現れからの誤差修正をされているので,世界から大きく離れようとしても離れらない.だから,思い的立ち現れも世界からそうそう容易くは離れることはできない.

だから,今はただ「思われている」だけの立ち現われの真偽を確かめようとするとき最終的には,それが「知覚的」に立ち現われると予期されて(思われて)いる場所と状況におもむいて,はたして知覚的に,特に[[触覚]]的に立ち現われるかどうかを調べるのである.旅行,探検,宇宙飛行,穴掘り,内視鏡,ゾンデ,解剖,等々はそのための移動であり労役であり道具なのである.このとき,それまではただ「思われていた」立ち現われが今や「知覚的」に立ち現われる.例えば「視覚的」に立ち現われる.「視覚的」に立ち現われる,それはすなわち,「見えている」ということなのである.そして,今や「視覚的」に立ち現われているものは,先程までは「思い的」に立ち現われていたものと同一のものなのである.p. 54

「同一不変なもの」があるとしたら,それは世界そのものだろう.私と世界とのあいで更新され続ける予測モデルは私そのものでもなければ,世界そのものではもない.それは私と世界とから立ち現れる世界のモデルである.この世界のモデルは常に世界を予測するために使用される.知覚的な立ち現れに対しては感覚からのデータに基づいて,予測モデルとの誤差を修正して,その立ち現れはアップデートしていく.思い的立ち現れに関しては,予測モデルそのものとのあいだで誤差を修正していく.知覚的な立ち現れと思い的立ち現れはダイレクトに比較されることはなく,そのあいだには予測モデルが挟まることになる.そして,予測モデルそのものは私でも世界でもない,私の意識にありながら,世界にありながら,それらとは異なり,それらから得られる情報から構築されている情報的存在である.

ここで急いで補足せねばならない.上の言い方では,何か立ち現われの背後に「同一不変のもの」があって,それがあるいは「思い的」に,あるいは「知覚的」に立ち現われる,といったように取られる恐れがある.だがそうではない.立ち現われの背後に何ものもない.「現象し」,「現出し」,「[[射映]]する」ような何かがあるのではない.そういった取り方を避けるため,「立ち現われ」という,いささか異様な言葉を使ったのである.あるのはそのときどきの立ち現われだけであって,「立ち現われる」何かがあるのではない.だから,同じものがあるいは「思い的」に,あるいは「知覚的」に立ち現われる,と言っても,この二つの立ち現われに「共通な同一不変のもの」がある,というのではない.p. 54

予測モデルという情報的存在のもとで「思い的」立ち現われとその「視覚的」立ち現われが現れる.世界は,私と世界とから構成される予測モデルから思い的立ち現れという姿で現れるときもあれば,視覚的立ち現れという姿で立ち現れるときもある.チャーマーズの情報の二相理論のように,情報は現象と物質という二つの相で現れる.世界は確かに存在するが,その表れとして最も実在的なのは,私と世界とから構築される予測モデルなのだと考えてみたい.予測モデルという一つの体制のもとで,思い的立ち現れと視覚的立ち現れが現れる.思い的立ち現れも視点としての私の視野に区切られた視界を持つが,そこでは感覚から制約がないために,視覚的立ち現れよりも粗い解像度になっている.同じ情報から異なる解像度の立ち現れが現れてくるのである.

それと同様に,「思い的」立ち現われとその「視覚的」立ち現われは単に「同一体制」の下に立ち現われるだけであって,その二つに「共通不変なもの」がふた通りに立ち現われるのではない.昨日の私と今日の私とが単に「同一体制」にあるだけであるように,この二つの立ち現われも単に「同一体制」の下での二つの立ち現われである.またその各々の立ち現われが時々刻々その姿を変えるが,その無数の変わりゆく姿が「同一体制」の下に立ち現われるようにである.そのことを,「同じ一つのもの」の立ち現われ,と言ったのである.「同じもの」が異なる様式と異なる姿で立ち現われる,だがその「同じもの」とはその各々の立ち現われそれ自身なのである.p. 55

私はずっと情報メインの世界における実在や認知について考えきたが,大森の『新視覚新論』を読んできて,情報メインの世界の認識主体を得た感じがする.私と世界とからなる予測モデルが認識主体なのである.この予測モデルが世界の情報を生成し続けながら,物質の次元と認知の次元という二つの次元でそれぞれ行為や認知を行い続けている.行為や認知を行い続けるのは,予測モデルにより多くの情報を入力しつつ,世界における情報を増やし続けるためである.

認知の次元が物質の次元とは異なるというのはチャーマーズらの考えでもある.チャーマーズは物質の次元と認知の次元を統合的に扱うための枠組みとして「情報の二相理論」というものを提示した.真の実在は情報的実在であり,真の実在としての「情報」の二つのアスペクト(相)として物質の次元と認知の次元が存在するという考えである.これは物質世界と認知世界を分かってきたデカルト的二元論を「情報的実在論」の構築により乗り超えるという試みであると考えられる.「情報の哲学」や「計算の哲学」は,計算機科学や情報技術産業の発展からやや遅れて現れてきたもので,二〇世紀後半の哲学のランドスケープにおいて未だ中心的存在ではなかった.しかし今世紀においては,フロリディの「情報の哲学」の普及などにも見られるように,徐々に影響力を強めているもので,「哲学の情報化」の傾向は,ちょうど「物理学の情報化」が起きてきたのと同様の仕方で,今後ますます強くなってゆくものと思われる.p. 189

丸山善宏「万物の計算理論と情報論的世界像」
『現代思想2023年7月号 特集=〈計算〉の世界』Kindle版

3 認識主観の不在

「瞼を閉じていてもである」と書いているのがいい.瞼を閉じていても「私はいやでも応でも「見えている」状況の場にある」と考える.そして,私が考えるその場とは予測モデルとしてつくられる視覚世界が私の周りにあり,視覚世界は私と世界との相互作用で構築されたモデルであるから,そこに私がいないということはあり得ない.私が風景を見ているとき,それは視覚世界を切り抜いたものを見ているのであり,その切り取り方を含めて,視覚世界は私と連動しており,世界とも連動しつつ,視界を形成する.視界は引き剥がせないように感じるほど強い自己帰属感とともに私とある.

「見る」こともあれば「見ない」こともある,「見る」こともできれば「見ない」こともできる,そういった「私」はないのである.目覚めている限り,私はいやでも応でも「見えている」状況の場にある(上に述べたように瞼を閉じていてもである).私は一瞬の中断もなく常時「見えている」風景の「ここ」に居る.しかし,その私はその風景の外から,あるいは,その風景の中心点(視野中心)から風景を「眺めている」のではない.p. 60

予測モデルとしてつくられる視覚世界を認識する主体としての私はいない.視覚世界は私に連動し,世界に連動しながら,ただそこにある.私がいなければ,世界がなければ,視覚世界は成立していない.視覚世界があるところには必ず私があり,世界があり,私と世界と連動するかたちで視覚世界は切り抜かれて,私の視界として私の意識に現れる.私が世界を見るのではなく,私と世界とがつくった視覚世界と連動するかたちで視界が現れるのである.視界は単に「見えている」という状態で,私(の意識)に現れる.私と世界との非意識レベルでの相互作用から視覚世界が制作され,更新され,切り抜かれていく.世界のなかでの私の様々な姿勢動作に連動して,視覚世界は切り抜かれていく.この切り抜いている主体は,私ではない.私と世界との連動において決定する視野が視覚世界を切り抜いていくのである.視覚世界という場があり,その場を制作・更新する私と世界とがあり,一度制作した場において,私と世界との連動が視野を決定し,視覚世界を切り抜き,視界を決定していく.生まれてきて,一度,視覚世界をつくる,私と世界とはその場で活動することになると同時に,私は世界の中にいる.私は世界にいると同時に,視覚世界という場にもいる.ここで重要なのは,私が見ているのは世界ではなく,視覚世界だということである.世界にいて,世界と連動しながら動くが,その動きとともに見ているのは視覚世界から切り抜かれた視界なのである.この意味で,世界には認識主体は不在である.では,視覚世界には認識主体はいるのか,ここでは場をつくるのが私と世界であり,その場を認識するのも私と世界との連動の結果であるから,認識主体としては私がいて,世界があるということになるだろう.しかし,そこでは認識される視覚世界自体が,私と世界との連動において変化していくものであるから,どこに特権的な認識主観がいるということはないと言えるだろう.情報メインに世界を捉える私の立場から言えば,予測モデルとしての視覚世界そのものが認識主観として存在していると言うべきだと思うのが,世界そのものを「認識主観」と呼んでいいのかがわからない.

ありもしない「支点」としての「私」を尋ねあぐねて.それでは一体「私」はどこにいるのだ.と尋ねたくなろう.しかし「見る私」.事物がそれに対して「見えている私」などはありはしないのである.だがしかし.「私」はどこにもいきはしない.「私」はここに居る.「私」は奥行きのある風景の中.「ここ」に居る.「ここ」に生きて呼吸をし.「ここ」に私の五体がある.そして様々のものが連結した風景(私の五体を含んで)が「見えている」.それだけであり.それでおしまいなのである.それが「私がここに居る」というそのことなのである.私はここに居て右に「眼を向け」左に「眼を向け」.上を仰ぎ下に「眼を落とす」.「眼をこらし」.また「眼をそむけ」.あるいは「眼を開き」.「眼を閉じる」.つまり.さまざまな姿勢動作をとる.それにつれて.さまざまに異なる風景が「見えてくる」であろう.同じ向きを向いていても.眼の開け具合.眼のこらし方.気の入れ方持ち方でそれぞれ異なる風景が見えてくるであろう.このように.何がどのように「見えてくる」かは私の姿勢と連動して変わってくる.それが「私がここに生きている」というそのことなのである.しかし.ある風景がある姿で「見えている」そのことは「私が」見ることではない.そこには何の動作もなければ.見ると見られるとの関係もない.それはただ.「見えている」という状態であり状況であり.場なのである.その場がそのような場であること.それがとりもなおさず「私」がその視点のあたりに居る.ということであって.その場の一項目としての登場人物ではないのである.p. 61

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