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GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界  


1.はじめに

 「GIF」とは「Graphics Interchange Format」の頭文字をとったもので、JPEGと並んで多くのブラウザにサポートされ、インターネットでよく使われている圧縮画像形式のひとつである。フルカラーを表示できるJPEGとは異なり256色しか表示できないGIFだが、「透過」や「アニメーション」といった他の画像形式にはない機能を持つために、ウェブの初期から使われている。

 まずGIFの歴史を簡単に振り返ってみたい。1987年5月28日、パソコン通信会社CompuServeが圧縮画像フォーマットとしてGIF規格「GIF87a」を公表する。さらに、GIFの大きな特徴となる「透過」や「アニメーション」機能の拡張をした「GIF89a」が1987年7月に策定される。その後、1995年9月にNetscape Navigatorのヴァージョン2.0が「GIF89a」をサポートしたことで、GIFアニメーションは徐々にネットに拡がっていき、ホームページを飾る要素として「工事中」を示すアニメーションや「回る地球[earth.gif]」などがネットに配置されていった1。同時に「単体で完結する物語作品としてのGIFアニメ2」も登場するようになる。その後、GIFは次のような経過を辿る。

GIFアニメは、2000年頃までにウェブ上の動画コンテンツとして確固たる地位を築いた、かのように見えたが、2001年前後からFlashアニメという新たな潮流の登場によって、少しずつ表舞台で話題になる回数は減っていく。2001年9月1日にサービスを開始した「Yahoo! BB」に象徴されるブロードバンドの普及により、常時接続と大容量回線が当然のものとなることで、軽い面白さが売りのGIFアニメよりも、多少容量が大きくても音楽や美しい映像を駆使したFlashアニメのほうが喜ばれるようになった3。

 しかし、2007年に発表されたiPhoneがFlashをサポートしないなどiOSデバイスからの締め出しや、ダッシュボードというタイムライン型のインターフェイスを持つTumblrの登場などによって、ダウンロードがはやく、再生ボタンがなく勝手に再生されるGIFは「短い動画」として再び注目を集め4。アートGIFのムーブメントを牽引してきた美術批評家のパディ・ジョンソンが「2010年はGIFアニメーションの年5」と書くほどに、ネット上でひとつの表現手段として使われるようになる。さらに、アートだけではなく報道の分野でもGIFが使われるようになり、オックスフォード大学のアメリカ出版局は「2012年の言葉」に「動詞としてのGIF」を選ぶ。GIFはファイルフォーマットを示す「名詞」としては既に英語辞典に掲載されているが、「動画や写真からアニメーションをつくる」という「動詞」の意味はまだなかったのである6。

 以上のように多様な要素を含むGIFであるが、本論文では機能拡張のひとつである「アニメーション」に集中してGIFを考察していく。それは、GIFがアニメーション機能によってウェブ上の「短い動画」として特別な存在になっていると考えられるからである。さらに、2012年にGIFアニメーションが流行したのはファッション業界で使われたことが引き金になっているのだが、ここでは主に「ポスト・インターネット7」と呼ばれる「インターネットが当たり前となった状況のもとでのアート」をめぐる言説から、GIFのあり方を考えていく。なぜなら、ネットがあたり前になったからこそ、そこであたり前に使われているGIFやJPEGのような画像ファイル形式がもつ「質感」が認識されるようになってきたからである。Web制作会社代表の栗田洋介が「だんだん「降りてきている」と言いますかね。サーヴィスも充実してきているので、もっとファイル形式とかそれを組み立てる言語のほうに安定を求めるというか8」と指摘するように、「ポスト・インターネット」的状況ではインターネット自体の可能性から、その場を成立させている要素へと興味が「降りてきている」。その際に、いかなるブラウザ、モバイルデバイスでも見ることができるGIFが注目されるようになってきた。そうした状況のなかで、「ネットアーティストたちの様々なGIFアニメーションの実践は、GIFというファイルフォーマットの新たな質感や意味を提示する意義深いもの9」と、自らもGIFアニメ及びその展示プラットフォーム10もつくる谷口暁彦が書くように、この領域の作家や批評家がもっとも真摯にGIFの独自性を追求していると考えられるのである。

2.GIFと情動

 2012年にファッションの業界やアメリカ大統領選挙の報道に使われたことに代表されるGIFの復活に関して、谷口は次のように書いている。

GIFアニメーションの短いループによる意味の圧縮/デフォルメ化と、そのキッチュさが風刺画のように機能しているからかもしれない。こうして2012年、一躍返り咲くことによったGIFだが、それはたんにFlashの代替として返り咲いたわけではなく、GIFというファイルフォーマットならではの質感や特性が再発見され、画像とも動画ともつかない独自の形式として認識され始めたことによるのではないだろうか11。

 この谷口の指摘は、技術の制約だけでなく「GIFならでは質感が再発見される」という見る者の認識の変化も考察の対象にしている。GIFの復活は、ネットと現実の関わりに対する認識の変化と関係していると考えられる。そして、その認識の変化を捉えていたのが2010年前後からの「GIFの質感」をめぐるポスト・インターネットの言説であろう。これらの言説を参照しながら、改めて認識されたGIFのあり方をみていきたい。

ウェブネイティヴ
 GIFアニメを多く制作するトム・ムーディは、標準的なブラウザにサポートされているGIFは、ウェブのアニメーションの「ネイティブ」であると指摘する12。さらに、GIFは誰でも作れるがゆえに、半匿名状態で作品が流通していくと考えている。しかし、ムーディはFacebookがGIFをサポートしていないように、GIFはウェブからいつ排除されるかわからない存在とも考えている。その「はかなさ」ゆえに、GIFはメインストリームの外部に位置する存在であり、それゆえにアーティストにとっては打ち捨てられた広場やプールのような格好の遊び場になっているとする13。

コミュニケーション
 パディ・ジョンソンは、画面上で明滅し続けるGIFはうるさいものであるが、見る者の注意を引きつけるので、あたらしい対話のはじまりになるとしている14。ジャーナリストで電子音楽のミュージシャンでもあるジョシュ・コプスタインはアニメーションのループが感情と記憶に作用するがゆえに、GIFはコミュニケーションに積極的に用いられていると分析する15。

ループ
 初期のウェブの状況を考察した「デジタル・フォークロア」で有名なオリア・リアリナはGIFの特徴は「ループ」と「透過」だとしている。そして、GIFは「ループ」によって一瞬を永遠に変え、「透過」によってどこにでも存在できる可能性を得たとしている16。「透過」と「ループ」というふたつの機能によって、GIFはホームページの至る所に「動き続ける画像」として配置されることになった。そして、ソフトウェア・スタディーズやネットアートに詳しいマシュー・フラーは、2012年に開催されたGIFの展覧会「Born in 1987」に寄稿したエッセイで「GIFアニメーションは圧縮形式をポップ・カルチャーにした」と書く。「ピクセルにダンスを踊らせたGIF」は、ウェブの初期において多く人の注意を引きつけるものであった。だからこそ、リアリナの興味を引いたのだろうとフラーは考えている17。

圧縮
 インターネットに関して多くテキストを執筆しているアーティスト、ブラッド・トロエメルは制約の多いGIFの画像形式自体が「検閲」として機能していると指摘する。そして、動画再生のための特定のプレイヤーを必要せず、つまり「再生ボタン」がなく、短いダウンロードが終わり次第勝手に再生されるGIFは、効率的に見ることができる「短い動画」であるとしている。さらにトロエメルは、GIFは初期のウェブの特徴を示しているのではなく、インターネットそのものが持つ「情報の圧縮」という傾向が内在している画像であると考える。その上で、トロエメルは、アートで用いられるGIFは、GIFがもっている「検閲」による効率の良さをあえて破棄することによって、その限界を押し広げるものであるとする18。

情動
 上で挙げられた「コミュニケーション」「ループ」「圧縮」という要素をまとめつつ、批評家でアーティストのサリー・マッケイはムーディを含めた3人の作家のGIFアニメの分析を通して、GIFが見る者の「情動」に作用すると書く19。GIFが情動に作用する要因のひとつはテレビ、映画と異なり、コンピュータのディスプレイで見るGIFは画像と見る者の位置が「近い」というインターフェイス的側面にあるとする。さらにマッケイは、画像形式の圧縮からくる低解像度のカクカクした動きゆえに動きを「補完」して映像を見る必要があること、制約ゆえの「軽さ」によるダウンロードのはやさなどとループ映像によって物語から離れた存在であること、そして、ネットの流れのなかでスムーズに映像が見られることが相まって、見ている者を軽いトランス状態におくものとしてGIFを考えている。これら特質によって、GIFは見る者の「情動」に影響を与えるとされる。そして「情動」は、GIFを見る者でありコンピュータを使う者、つまりヒトがコンピュータと接していくなかで「モノ」のようになっていくことに対して抵抗するものだとマッケイは考える。これは『ニューメディアの言語』で有名なレフ・マノヴィッチへの批判が込められている。メディアテクノロジーはヒトの内面が外に反映されたものだと、マノヴィッチは考えている20。この考えを受けたニューメディアの文化を研究するミシェル・ヘイニングは、コンピュータのインターフェイスはリンクなどでディスプレイに提示された「精神」をクリックしながらその道筋をたどることになり、ヒトの精神がさらに「モノ」のように認識されるとしている21。対して、マッケイはヒトがコンピュータなどのマシンとの結びつきを強め「モノ」のようになりつつあることは認めつつも、情動への強い作用をもつGIFを介することで、ヒトはモノ化に抵抗していると書く。

 GIFの特徴をうまくまとめながら「情動」を軸にして「GIFによるヒトのつながり」を描く、マッケイのテキストは興味深いものである。しかし、私はGIFによる情動によって見る者がつながっていくのではなく、マノヴィッチ的な考えになるのだが、ヒトがGIFそのものと遭遇することで、世界を認識する仕方を変化させていると考えてみたい。なぜなら、これからさらにヒトとコンピュータが密接な関係になっていくのであれば、精神の「モノ」化を示す認識のあり方を「情動」というヒト単体の機能を用いて抵抗するのではなく、ヒトとコンピュータの複合体がつくりだす「あらたな認識」として肯定的に捉えた方がよいと思われるからである。

3.GIFと初期映画

3-1.映像

 GIFは「動画」であるにもかかわらず、物語の一部にもならない「動き」を切り取った「静止画」のような特殊な性質をもったものである。GIFは「物語」ではなく、デフォルメされた「動き」が強調される。ここで初期映画とGIFとを対比してみたい。なぜなら、初期映画とGIFはとともにそれぞれのメディアの黎明期に現われた映像の形態であり、映画研究者のトム・ガニングが「初期映画は、その後あからさまに映画を支配するようになる物語への衝動に屈服していたわけではなかった22」というように、初期映画は「物語」を強調した映像ではないなど、物語の要素がうすい「短い動画」であるGIFと多くの類似点が見出されるからである。

 ガニングは1906年頃まで映画を支配した映画と観客のあり方を「アトラクションの映画」と呼ぶ。そして、映画が「物語」を積極的に活用するようになったあとも、アトラクションの映画は消えることなく、物語映画の要素としてあり続けているとしている23。アトラクションの映画について、ガニングは次のようにまとめている。

アトラクションの映画は観客の注意をじかに引きつけ、視覚的好奇心を刺激し、興奮をもたらすスペクタクルによって快楽を与える───虚構のものであれドキュメンタリー的なものであれそれ自体が興味をかき立てる独特のイベントなのである。展示に供されるアトラクションは映画的特性も備えていて、それはたとえば今しがた述べたばかりの初期のクロース・アップやトリック映画だが、後者は映画的操作(スロー。モーション、逆回転、変身、多重露出)が物珍しさを提供する。虚構の状況はというと、ギャグやヴォードヴィルの演目、衝撃的で好奇心を煽る出来事の再現(刑の執行、最新の事件)に限定されがちだった。映画製作へのこうしたアプローチを規定するのは観衆への直接的な呼びかけであり、それに基づいて映画興行師が観客にアトラクションを供するのである。ストーリー展開や物語世界の想像と引き換えにショックや驚きのような直接的刺激を強調することで、物語に没入させることよりも演劇的な誇示の方が優位に立つ。アトラクションの映画は、心理的動機や個人的人格を備えた登場人物を想像することにエネルギーを費やすことはほとんどしない。フィクションとノンフィクションの双方のアトラクションを活用することによって、そのエネルギーは、古典的物語には不可欠である登場人物本位の状況へと内向きに作用するよりも、そこに居合わせていると想定された見物人に向けて外向きに作用するのである24。

 ガニングのアトラクションの映画の特徴は、GIFと重なるところが多い。初期映画が「動き」を映像の世界にもたらしたように、ウェブにおいてGIFは静的な世界に「動き」を持ち込み「驚き」をつくりだした。しかし、既に100年以上も動く映像を見てきた人たちにとって、その「驚き」は初期映画のそれとは比較にならないほど弱いものであり、すぐにその状況に慣れてしまったと言える。さらに、ミリアム・ハンセンはガニングの論を受けて「初期映画のスタイルは、再現前的であるというよりはむしろ現前的なものであった25」としているが、GIF自体が初期映画的な「現前的」映像として見られたのではなく、映像を見る者の物語的映像への慣れから、GIFは「再現前的」な映像として受け止められたと考えられる。それゆえに、ウェブ上の動画のトレンドはGIFからQuickTimeやFlashなどのより高解像度の「再現前的」な映像へと急速に移っていったのである。

 しかし、インターネットがあたり前の存在になるとともに、GIFは見る者にクリックを求めず、ただそこでループし続ける「現前的」な映像として、その「動き」が生み出す独特な意味の圧縮及びデフォルメされた「直接的刺激」や「演劇的誇示」のリアリティを楽しむものと認識されはじめ、GIFがもともともっていた映像の「質感」が意識されるようになったのである。谷口の次の指摘はこのことを的確に表している。

GIFの場合、色数を減らさなくてはならなかったりするので、その時点で何らかの恣意的なデフォルメとかが行なわれちゃう。だから、そこでいったん対象物から切り離されちゃうというか、リアリティの距離が離れてしまう。また、GIF自体、アニメーションで画像がループしはじめると、同じ世界を延々と何回も繰り返すことで、この世界の時間軸からも切り離されてしまう26。

 映画があたり前のものとなった状況でガニングによって初期映画が発見されたように、「ポスト・インターネット」的状況になったからこそ、GIFのループ映像が示している「動き」とそれが示すひとつの閉じた世界としての「現前性」が認識されるようになったと考えられる。

3-2.インターフェイス

 中村秀之は「アトラクションの映画」の解題のなかで「論文が実定性を与えようとしている真の対象は、映画という出来事がそこに現出する境界面[インターフェイス]にほかならないのだ27」と書いている。この中村の指摘を受けて、次に「インターフェイス」という観点から、GIFと初期映画を考えてみたい。ガニングは「効果は飼い馴らされたアトラクションである28」と書き、ニューメディアの理論家で制作者でもあるアレクサンダー・ギャロウェイは、インターフェイスが「モノ」ではなく「効果」であるという観点で『インターフェイス効果』を刊行する29。ギャロウェイが示す観点と著書のタイトルは、ヒトとコンピュータを結びつけるインターフェイスに、「飼い馴らされた」ものかもしれないけれど「アトラクションの映画」の要素が入り込んでいる可能性を示している。

 ギャロウェイは哲学者のスタンレー・カヴェルの映画論を参照しながら、映画とコンピュータのインターフェイスの違いを考察している。ギャロウェイは古典的映画を考察したカヴェルが、映画を見る者は世界との距離をとって、映像を見るという考えに同意する30。そして、「一幅の絵はひとつの世界である。一枚の写真は世界の写真である31」というカヴェルの言葉から、ギャロウェイは「映画は世界のための(for)のもの」とし、「コンピュータは世界の上に(on)にあるもの」と考える。そしてこの違いから、映画は人を泣かせるが、ウェブサイトを見ても泣く人がいないとする32。それは、映画がひとつの世界をじっくり見せる「ための」映像なのに対して、コンピュータはあくまでも世界の「上」につくられたシミュレーションでしかなく、ヒトとのインタラクションのなかですぐに「次」の映像が求められるものだからであろう。さらに、ギャロウェイは映画のスクリーンが見る者に向かってくるものだとすると、コンピュータのディスプレイは使う者から離れていくものであり、それゆえに映画では背もたれによりかかり、コンピュータでは前のめりになるという33。これは大きなスクリーンと小さなディスプレイという画面の大きさに由来する見る者の態度の違いでもあろう。映画とコンピュータで映像を見る者は、全く異なる姿勢で目の前の映像に向かっていることになる。

 「映画とは何か」を考えたカヴェルを経由したギャロウェイのインターフェイス論から、映画とコンピュータとのインターフェイスの違いをみたのだが、カヴェルが考察した古典映画とガニングが再発見した初期映画のあいだにも違いがある。先に引用した「アトラクションの映画」のまとめのなかで、ガニングは「[アトラクションの映画は]フィクションとノンフィクションの双方のアトラクションを活用することによって、そのエネルギーは、古典的物語には不可欠である登場人物本位の状況へと内向きに作用するよりも、そこに居合わせていると想定された見物人に向けて外向きに作用する34」と指摘している。ここで言及されている古典的物語の作用は、ギャロウェイが考える映画を見る者の姿勢と逆向きとなり、スクリーンのなかに映像を見る者を招き入れる力を示している。それは、ギャロウェイが映像そのものの効果を考えることなく、専らインターフェイスの効果を考えているからだと言える。だからギャロウェイは、映画はひとつの世界の「ための」映像を見るためにゆっくりと腰を落ちつける場とされると同時に、巨大なスクリーンでもって見る者に迫ってくるものとする。しかし、このときガニングが指摘するように物語映画はスクリーンのなかに見る者をその世界との距離を保ちながら招きいれようとしている。つまり、物語映画では大きなスクリーンというインターフェイスとひとつの世界を示す映像との協働によって、見る者と映像との適切な距離が成立しているのである。

 対して、世界からサンプリングされたデータを元に世界の「上に」重なるように作られたコンピュータが示す映像は、常に「次」を求めるヒトとのあいだのインタラクションを構成する要素のひとつとなっている。そこには「全体」を眺めるようなひとつの世界はなく「次々」に出てくる映像があり、ヒトはマウスなどのインターフェイスを用いてリンクを辿りながら映像の世界を「内へ内へ」と進んで行く。「次」を求めてもらうために、コンピュータのディスプレイに表示される映像は観る人の注意を画面のなかの数箇所のみに惹きつけ「内へ内へ」と誘うように作られている。だから、コンピュータを使う者は、仮に大きなスクリーンにその映像が表示されていたとしても、映像に対して前のめりになるのである。

 初期映画と物語映画がそれぞれ示す映像の効果の違いをインターフェイスの効果に組み入れて、GIFを考えてみたい。物語映画は「内へ内へ」と見る者をスクリーンのなかに惹きつけながらも、大きなスクリーンというインターフェイスが見る者を席にゆったり座らせる効果をつくり、映画と見る者とのあいだに適切な距離が生じる。対して、初期映画は映像そのものが「外へ外へ」とスクリーンとともに見る者に迫ってきて、気持ちを落ち着かなくさせる。コンピュータでは映像が「内へ内へ」と見る者を招きいれながら、小さなディスプレイとそこに映るカーソルやアイコンなどの映像、そしてマウスといった様々なインターフェイスを組み合わせて見る者を「次へ次へ」と求める使う者へと変化させて、映像の「内へ内へ」と引きずり込む。そのような状況のなかで、初期映画と同じ映像的特徴をもつGIFアニメは「外へ外へ」と向かってくる。それゆえに、インターフェイスによって「次へ次へ」と促されながら、画面の「内へ内へ」と引きずり込まれていくコンピュータを使う者は、「外へ外へ」と向かってくるGIFとディスプレイ平面で「遭遇」することになる。

4.GIFとの遭遇と選択的認識

 ホームページの装飾という役割を与えられていた従来のGIFでは「遭遇」が前面に出ることがなかった。GIFはホームページの至るところに配置され見る者の注意を惹いたが、それはあくまでも「家」のなかの置物にすぎないものであった。「家」のなかに置かれていたGIFをネットの流れのなかへ解き放ったのが、タイムライン型のダッシュボードをもつTumblr35なのである。

 ガニングは「初期映画」が「映画はヴォードヴィルの演目に一つのアトラクションとして現われた。非物語的にしてほとんど非論理的なパフォーマンスの連鎖のなかで、相互に脈絡のないひとかたまりの出し物に囲まれて現われ36」、興行師の話にのって見せられていたと指摘する。これもまた、現在のGIFの受容と重なる部分である。GIFはTumblrというアーキテクチャを得て、「タイムライン」を脈絡なく流れてくるコンテンツのひとつとなり、見る者に「遭遇」という感覚を強く与えるようになったのである。動画にあるべき「再生ボタン」がないことが、この感覚をより強いものにしている。「再生ボタン」を持たないGIFは、ヒトとコンピュータとのインタラクションを否定し、ヒトと映像との最低限のインタラクションである「再生と停止」もできない。ガニングは初期映画の「上演」の際にはじめから動画を見せることをしなかったと指摘し、「最初の静止したイメージの投影は、装置の存在理由である動きの幻想をしばらく見せずにいることで、最初の映画の上映にサスペンスの効果をもたらした37」と書いている。Tumblrを流れてくるGIFではこれとは逆に、動画なのに勝手に再生されるということが「目の前にあるのは映像ではないのではないか」という「サスペンス」効果をつくりだすと考えられる。Tumblrのタイムラインの流れに放り込まれたGIFは、「驚き」とともに見る者と「遭遇」することになり、再び脚光を浴びることになったのである。

 Tumblrでの見る者とGIFとの「遭遇」について教えてくれるのが、《The Gif Connoisseur》というTumblrサイトである38。《The Gif Connoisseur》は、「鑑定士」がGIFアニメをとても近くで鑑定するというGIFアニメである。しかし、鑑定士はGIFを近くで見すぎていて、全体を見ることができていないようである。けれど、彼はそんなことはお構いなしに直立不動でGIFを見続ける。直立不動の鑑定士とGIFとの距離は限りなくゼロに近いが、ゼロではなく「ほぼゼロ」という感じになっている。《The Gif Connoisseur》の引用元、ノーマン・ロックウェルの《The Connoisseur》(1962)での鑑定士はジャクソン・ポロックによるアクション・ペインティングの手前に立っている。そこには「見る」ことを強制し「触れる」ことを拒絶するような「距離」があり、その関係がひとつの絵画として定着されている。しかし、《The Gif Connoisseur》での鑑定士はGIFに触れていそうな「ほぼゼロ距離」に立っている。「ほぼゼロ距離」に立つことで、彼とGIFとのあいだに「遭遇」という出来事を感じさせる妙な緊張感が生まれている。

The Gif Connoisseur #216

 GIFを見る者にとって、GIFに対して「ほぼゼロ距離」に立つ鑑定士は邪魔な存在なのではないだろうか。しかし、彼に「GIFが見えないので少しどいていただけますか」と声をかける人はいない。むしろ、鑑定士の存在は大いに受け入れられている。それはIllustratorなどのグラフックソフトウェアが示す「最背面−背面−前面−最前面」という一見するとあるのかないのかわからない重なりを持つ平面に、GIFアニメと「鑑定士」が配置されているからである。鑑定士は他のすべてのオブジェクトに邪魔されることがない「最前面」という特権的な位置に立ちながらも、別のレイヤーにいるのではなくGIFと同一平面にある。写真研究家のダニエル・ルビンスタインは、GIFは真実や記憶を示すのではなく「出来事が起る空間」を画像に与えると考える39。この指摘と鑑定士とGIFが同一平面にあることから、《The Gif Connoisseur》を体験する者は「GIF」と「鑑定士」を見ているのではなく、「GIFと鑑定士の遭遇という出来事」に出くわしていると言える40。

 鑑定士はGIFと同じ平面に位置することで、本来ディスプレイを見る者が持つべき「GIFとの遭遇」という特権を剥奪して「見る者」となる。しかし、鑑定士は見る者のもうひとつの特権であるコンピュータを操作することまで剥奪することはない。それゆえに、見る者は「GIFと鑑定士の遭遇という出来事」を「リブログするか/しないか」を決定する「鑑定士」となる。「見る者=鑑定士」となることは、ネット上でGIFと遭遇する者のあり方なのである。GIFとの遭遇者はそのすべてを見ることなく、一瞥程度や限定した見方でそれを鑑定していく。その際、「鑑定」という認識を成立させるのはTumblrであれば「リブログするか/しないか」であり、ホームページであれば「ドラッグして保存するか/しないか」という何かしらのコンピュータの操作なのである。この操作を伴った「認識」について、エキソニモの千房けん輔は「コンピュータ 記憶 シンクロ」と題されたブログ記事で次のように書いている。

やっぱり、選択的なデータしか記憶しないコンピュータの仕様が、現実/物質とのズレを生んでいるんじゃないかな。もし人間にそんなやついたら信用出来ないもんね(まぁわざとそういうふりする奴いるけどw)それでも人間同士だったら同じ時空を共有したら、同じ程度にすり減ってるような感覚を前提にできるけど、そん時一緒にいたPCくんはファイルとして保存しない限り、データの世界にその時空は刻まれないわけで41。

 コンピュータは操作を伴った選択に基づいたデータしか認識せずに記憶もしない。この保存の仕方の違いは、「すべてを認識する」及び「選択的に認識する」という認識の解像度のズレに基づいていると言える。ウェブデザイナーの萩原俊矢も「保存について」というテキストで次のように書く

実空間で展開される僕たちの日常会話は自動記録されることなく垂れ流れていく、くだらない冗談もいい話も悪口もFavられることもRTされることもなく、全ては思い出として心や記憶に残って、うわさ話とかに変化し口頭伝承されていく、そういうアーキテクチャのなかにある。twitterでの発言すべてが残っていることに対して、リアルは保存という点ではとても不自由だけど、「いつまでもなつかしい」という感覚はそういうところに宿るのかもしれない42。

 ヒトが「なつかしい」という感覚とともに「全て」を記憶するように、コンピュータは「全て」を記憶するわけではない。Twitterでは140字以内でつぶやかれた言葉のみが記憶され、さらにリツート(RT)などの行為をひとつひとつ遂行しなければ記憶が成立しない。ヒトがコンピュータとともに「つぶやく」という行為をしなかった言葉=データはタイムラインに流れることもなく、世界にその存在が認識すらされない。そして、何かしらの行為とともにコンピュータに認識・保存させたとしても、「なつかしい」などの感覚が伴わない記憶は、どこかで低解像度の認識、言い換えれば、単なるデータに基づいたものとみなされるのだろう。この意味で、ヒトはコンピュータとともに「選択的認識」と呼ぶことができるあたらしい認識を行なっていると考えられる。

もし森の中で木が倒れても、その様子を誰かがiPhoneで撮影して、すぐにTumblrやFacebook、Flickr、Google Reader、Instagram、Twitter、Deliciousにアップロードしなかったとしたら、その木は本当に存在するといえるんだろうか?43

 上の引用は、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催された「「[インターネット アート これから]――ポスト・インターネットのリアリティ」」展でのアーティスト・トークで読み上げられたパーカー・イトーの「天国の季節――ポスト・インターネットを生きる」の一部である。ここにはiPhoneでの撮影と、その後に各種サービスに画像をアップさせていくという「選択的認識」のプロセスが描写されている。さらに、イトーは2012年に開催した個展「The Agony and the Ecstasy」で反射性素材を用いた作品を展示した。キラキラと反射する作品は、見る角度によって表情を変える。それを体験するにはギャラリーに行くしかないのだが、イトーはホームページに個展での記録写真、制作風景やパーティーの写真を画像解像度を気にすることなく大量に掲載してもいる44。それらの大量の画像は「すべて」を認識できないのであれば、できるだけ多く認識することが大切だという「選択的認識」のあり方を示している。「選択的認識」では画像の解像度は関係なく、認識が行われた量だけが問題なのである。だから、ひとつの画像がそれを表示する解像度が異なる多くのサービスにアップロードされる。「選択的認識」では、スマートフォンなどで撮影された多くの画像が、さらにサービスの数だけ増殖していくのである。

 また、ペギー・ネルソンの「GIFは世界のスケッチ45」というアイデアは、認識の解像度という点から「選択的認識」について教えてくれる。ネルソンは映画とテレビ、そしてYouTubeなどは「リアリズム」を求めてきたが、その反動としてネットで世界を「スケッチ」的に表現する流れがあることを指摘する。SecondLifeのようなリアルなアバターから、Twitterのような140字のテキストで自分を表すようなったのはその流れのひとつであり、GIFアニメもそのなかに含まれるとされる。ネットも含めて世界が「リアル=高解像度」に溢れているからこそ、「スケッチ=低解像度」の質感が改めて認識され始めているのである。だから、「選択的認識」では認識の解像度が低くても、そこにはそれ独自の質感が見出さることになる。そして、低解像度ゆえに膨大な量の認識が為される可能性が生まれるのである。

 世界のスケッチとしてのGIFは「選択的認識」と密接に結びついている。ウェブで、特にTumblrのダッシュボードの流れのなかでGIFと遭遇した者は、コンピュータのようにその都度「出来事を認識するか/しないか」、そして「認識するとしたらどこに保存先にするか」を決める「選択的認識」を行う平面に引き込まれる。そしてそこでは認識の解像度=画像の解像度は低くても、それ独自の質感が認められるため、大量のスケッチ的な認識が為される。GIFの流行は、ディスプレイを見る者が認識の解像度を気にすることなく「選択的認識」をはじめたことの現れと考えられるのである。

5.画像ファイルとしてのGIFとデフォルメされた世界

 次に、GIFにおいて「選択的認識」がヒトに強く作用する理由を考えてみたい。美術批評家のボリス・グロイスは「画像ファイル」に関して、ファイル自体は見ることができない、つまり「オリジナル」を見ることができないものだとしている。その上で、「画像ファイル」に基づいてディスプレイに表示される「画像」は「コピー」ではなく、楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものであると指摘している46。ディスプレイに表示されている画像は「オリジナル」と「コピー」という関係が成立しないもので、パフォーマティブな画像だというグロイスの指摘は興味深い。「画像ファイル」のというあらたな画像のあり方が「選択的認識」に作用していると考えられる。しかし、この性質はすべての画像ファイルに当てはまるものであり、これだけでは「GIFとの遭遇」が、なぜ認識の変化の兆しを示すのかを説明できない。

 1024個のGIFアニメを売買する場として2011年に《GIF MARKET》47をつくったキム・アセンドルフとオラ・ファッチは、GIFはその低解像度とアニメーションによって、画像ファイルは最終的にはプリントされるものという認識を変えるものだと考えている。そして、GIFにとってはディスプレイこそが「ホーム」であるから、たとえそれがグロイスの言うように見えないものであったとしても、ファイル自体が「オリジナル」として価値を持つのだと指摘する48。だから、彼らはGIFの画像ファイルを売るのである。これと対比できるのが、写真家のトーマス・ルフの『jpegs』49という写真作品である。ルフはJPEGが過度に圧縮された際に生じる「アーティファクト」と呼ばれるノイズにデジタル特有の美を見出す。彼はネット上に流通しているJPEG画像をさらに圧縮したノイズ混じりの画像を「プリント」して写真として提示する。ここでは、デジタル特有の「アーティファクト」がディスプレイとファイルとの結びつきから引き離されて提示されている。GIFとは異なりJPEGでは「画像ファイル」と「ディスプレイ及びコンピュータ」との「分離」が成立する。

 JPEGと異なりGIFはディスプレイから分離できないからこそ、ポスト・インターネット的状況でネットを主な表現の場にするアーティストたちに独自の存在感を示している。千房はそのひとつの例として「earth.gif」をあげている。

数年前に懐かしく思って、earth.gifをたくさんコレクションことがあった。それを最近のマシンで再生したら、ものすごいスピードで回転し始めた。地球の住人が全員遠心力で宇宙に飛ばされるくらいの速さだ。当時のマシンではいい感じに回っていたんだろうけど、PCのスペックが飛躍的に向上したことでearth.gifの回転スピードが劇的に上がってしまったのだ50。

 GIFはその表示の際、画像ファイルという「オリジナル」が見えないのは他の画像形式と同じだが、千房の指摘する「earth.gif」が示すようにコンピュータのスペックによってその表示が変化してしまう。GIFの見え方は、それを見る者だけなく、それを表示するコンピュータからも直接的に影響を受けるのである。だから、GIFは画像ファイルを表示するコンピュータと結ばれたディスプレイから離れることができない。つまり、ヒトとコンピュータの双方を低解像度のディスプレイ平面に巻き込むパフォーマティブな見え方こそが、GIFという画像ファイルをコンピュータ特有の「選択的認識」と強く結びついた特異な存在にしているのである。

 最後に、『GIF BOOK』に掲載された渡邉朋也の「なか卯山口湯田温泉店午前2時」が示す、GIFと「選択的認識」のもとにある世界のあり方を見てみたい。渡邉は牛丼・うどん・親子丼チェーン「なか卯」のトップページの画像形式の変遷を追いながら、Flashが現実を「完全」に捉えるのに対して、GIFはその「制約」によって現実を「不完全」に捉えていると比較する51。ここで「完全」と言われているのは、Flashが映画やテレビのような映像をつくることを指している。つまり、人間の知覚能力に合わせて1秒間に24コマが映されたり、走査線の変わるレートが決められていることが「完全」なのである。対して、GIFの256色などの制約は人間の知覚や認識の能力に合わせられているのではなく、スペックが低かった頃のコンピュータの能力に合わせて決められている。それゆえにGIFとヒトの認識は完全には一致しない。しかし、そもそも現実自体が時間とともに劣化していく「不完全」なものと考えるならば、「不完全」なGIFこそが現実の不完全さを「完全」に捉えていると、渡邉は考える52。ここには、低解像度のGIFアニメが示す「不完全さ」と噛み合うように、現実を時間の流れとともに劣化していく「不完全」なものとして捉える認識が生じているのである。

 映像そのものが「画像ファイル」というあたらしいあり方になっていることから、ディスプレイ上の画像はこれまでとは異なる映像のあり方「も」示すべきである。テレビも映画も高解像度化を「画面」単位で推し進めたが、コンピュータは「ファイル」単位でその解像度を設定できる。これはひとつの利点である。だから、GIFはコンピュータのディスプレイの解像度が上がった今でも、「選択的認識」と結びついた解像度を気にしないパフォーマティブな「画像ファイル」として存在し続けることができるのである。そして、ディスプレイ平面でのGIFとの遭遇のなかで、ヒトに解像度の高さではなく、より多くの認識を求める「選択的認識」というあたらしい認識様式が生じていく。その結果として、膨大な量の低解像度の認識がなされ、それらがネットおよびコンピュータの世界とヒトの世界のあいだのズレを埋めていき地続きにしていく。そしてその先に、ヒトとコンピュータの複合体に最適化された低解像度のデフォルメされた世界=「earth.gif」が示されるのである。

6.おわりに

 2013年3月9日にTumblrがアートブログのHYPERALLERGICとともに、 The World's First Tumblr Art Symposiumをニューヨークで開催した。アートユニットEco Art Techのレイラ・ネイダ−とカリー・パーパーメントはシンポジウムに寄稿したエッセイに、私たちは目の前で起こっている現象に対して「語る言葉がないので、言葉はつくられる必要がある53」と書くように、私たちはコンピュータやネットがもたらす表現のための言葉をつくる必要がある。だからこそ、本論文は「選択的認識」という言葉をつくり、高解像度の地球画像「ザ・ブルー・マーブル」に基づく認識ではなく、低解像度で回りつづける(紙の上では回らないが)「earth.gif」から生まれる認識への考察を試みたのである。


ザ・ブルー・マーブル


earth.gif  

 「earth.gif」が回り続ける「ポスト・インターネット」的状況で、GIFと遭遇していくヒトは「選択的認識」を行うようになり、そこでは認識の多さが重要であり、認識及び画像の解像度は大した問題ではなくなる。そして、より多く認識を行うために解像度は徐々に下がり、現実の捉え方が変化していく。「選択的認識」はTwitterの例があるように、GIFに留まらずコンピュータとウェブに接していくヒトの認識の変容のひとつである。「選択的認識」は憂うような認識の劣化ではなく、ヒトがコンピュータとがひとつの複合体としてより密接な関係を築くための変容と肯定的に捉えるべきなのである。

1 ばるぼら「GIFアニメーションの歴史〈前篇〉─── GIFの誕生と最初の流行 1987-2001」、古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、10−13頁。

2 同上書、15頁。

3 同上書、17頁。

4 谷口暁彦「GIFアニメーションの歴史〈後篇〉─── 再評価されたGIFフォーマット 2000−現在」古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、18−20頁。

5 Paddy Johnson, The Year of The Animated Gif, ARTFCITY, 2010, http://www.artfagcity.com/2010/10/07/the-year-of-the-animated-gif/ (2013.3.13)

6 Oxford Dictionaries USA Word of the Year 2012, http://blog.oxforddictionaries.com/press-releases/us-word-of-the-year-2012/ (2013.3.13)

7 「ポスト・インターネット」という言葉は、2008年にアーティストでもあり、批評家・キュレーターでもあるマリサ・オルソンがインタヴューの中で言ったことがはじまりとされる。オルソンは、インターネットはすべての人に影響しており、オンライン/オフラインの区別は無効であるという意識のもとで「ポスト・インターネット」という語を使っている。それを受けて、批評家のジーン・マクヒューが「Post Internet」という自身のブログに「「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法」という記事を書く。

*1:WWW以後のニュー・メディア・アート

*2:マリサ・オルソンの定義:インターネットを使用した後に11作られたアート

*3:インターネットが陳腐なものになった状況に反応しているアート

これがジーン・マクヒュー自身の見解。彼自身は「誰もがインターネットを自由に使えるようになってしまった、そういう状況に反応しているアートが「ポスト・インターネット・アート」である。

*4:ガスリー・ロナガンが言っているように、イメージがオブジェクトよりも広がっていくもの

8 栗田洋介+谷口暁彦+萩原俊矢+畠中実+水野勝仁、座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)、2012年3月4日開催、http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document6_j.html (近日公開)

9 谷口、前掲書、22頁。

10 GIF 3D Gallery, http://okikata.org/work/work/gif-3d-gallery.html (2013.3.13)

11 同上書、23頁。

12 Tom Moody, PBS does "animated jifs" - part 4, 2012, http://www.tommoody.us/archives/2012/03/21/pbs-does-animated-jifs-part-4/ (2013.3.13)

13 Tom Moody, animated GIF Q and A, 2010, http://www.tommoody.us/archives/2010/11/03/animated-gif-q-and-a/ (2013.3.13)

14 Paddy Johnson, Graphics Interchange Format At Denison

University’s Mulberry Gallery, ARTFCITY, 2011, http://www.artfagcity.com/gif/GIF%20Press%20release.pdf (2013.3.13)

15 Josh Kopstein, The GIF That Keeps On GIFing: Why Animated Images Are Still A Defining Part Of Our Internets, The Creator Project, 2012, http://www.thecreatorsproject.com/de/blog/the-gif-that-keeps-on-gifing-why-animated-images-are-still-a-defining-part-of-our-internets (2013.3.13)

16 Olia Lialina, Animated GIF as a medium, http://art.teleportacia.org/observation/GIF-as-medium/ (2013.3.13)

17 Matthew Fuller, GIFFED ECONOMY, Born in 1987, 2012, http://joyofgif.tumblr.com/tagged/text#!/post/23221575402/matthew-fuller (2013.3.13)

18 Brad Toremel, The GIF’s Obsession With Compression in Peer Pressure ─── Essays on the Internet by an Artist on the Internet, LINK Editions, 2011, Kindle.

19 Sally McKay, The Affect of Animated GIFs (Tom Moody, Petra Cortright, Lorna Mills), art&education, http://www.artandeducation.net/paper/the-affect-of-animated-gifs-tom-moody-petra-cortright-lorna-mills/ (2013.3.13)

20 Lev Manovich, The Language of New Media, MIT Press, 2001, 61.

21 Michelle Henning, Legibility and Affect: Museums as New Media in Exhibition Experiments, Sharon Macdonald and Paul Basu, eds., Blackwell Publishing, 2007, p.36.

22 トム・ガニング「アトラクションの映画───初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(中村秀之訳)、長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル───沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会, 2003、304頁。

23 同上書、305頁。

24 同上書、308頁。

25 ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画───公共圏のトランスフォーメーション」(瓜生吉則、北田暁大訳)、吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』せりか書房、2001年、282頁。

26 座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」

27 中村秀之「解題───アトラクションの映画」、長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル───沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会, 2003、317頁。

28 ガニング、前掲書、313頁。

29 Alexander R. Galloway, The Interface Effect, Polity Press, 2012, p.vii.

30 Ibid., p.11.

31 スタンリー・カヴェル『眼に映る世界───映画の存在論についての考察』(石原陽一郎訳)、法政大学出版局、2012年、52頁。

32 Galloway, pp.11-12.

33 Ibid., p.12.

34 ガニング、308頁。

35 2007年にサービスを開始したウェブスクラップ、ミニブログソーシャルメディア。

36 ガニング、310頁。

37 トム・ガニング「驚きの美学───初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(濱口幸一訳)、岩本憲児他編『「新」映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社、1999年、107頁。

38 http://thegifconnoisseur.tumblr.com/ (2013.3.13)

39 Daniel Rubinstein, GIF TODAY, Born in 1987, 2012, http://joyofgif.tumblr.com/tagged/text#!/post/23221545148/daniel-rubinstein (2013.3.13)

40 《The Gif Connoisseur》に関する記述は以下のテキストをもとにしている。水野勝仁「The Gif Connoisseur、それはつまり「あなた」である。

」古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、54-55頁。

41 千房けん輔「コンピュータ 記憶 シンクロ」、センボーのブログ、2012年、http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF-%E8%A8%98%E6%86%B6-%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD/ (2013.3.13)

42 萩原俊矢「保存について」、HGWのBLANK、2013年、http://www.cbc-net.com/blog/hgw/2013/03/08/%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ (2013.3.13)

43 Parker Ito, A Season in Heaven: Living Post Internet, http://www.parkerito.com/doc.html (2013.3.13)

44 Parker Ito, http://www.parkerito.com/ecstasy.html (2013.3.13)

45 Peggy Nelson, Lars and the Real Gif, other cinema, issue 20, 2011, http://www.othercinema.com/otherzine/?issueid=25&article_id=122 (2013.3.13)

46 Boris Groys, From Image to Image File—and Back: Art in the Age of Digitalization in Art Power, MIT Press, 2008, pp.84-85.

47 http://gifmarket.net/ (2013.3.13)

48 Kim Asendorf & Ole Fach, http://kimasendorf.com/gifmarket/README (2013.3.13)

49 Thomas Ruff, jpegs, Aperture, 2009.

50 千房けん輔「GIF アンド ユー ドント ストップ!!」古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、25頁。

51 渡邉朋也「なか卯山口湯田温泉店午前2時」古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、150-151頁。

52 同上書、150-151頁。

53 Leila Nadir and Cary Peppermint, Tumblr, Art, and Web 2.0 Ecologies: The Medium Is Still the Message, Hyperallergic, 2013, http://hyperallergic.com/66580/tumblr-art-and-web-2-0-ecologies-the-medium-is-still-the-message-2/ (2013.3.13)


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