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174:3DCGがもつ表現の「膨張」した部分

児嶋啓多の作品を論じたnoteで「フォトリアル」という言葉を使って以来,この言葉が気になっている.「フォトリアル」とネットで検索すると,次のような定義になっている.

フォト‐リアル【photo-real】
[名・形動]写真のように写実的なこと。また、そのさま。特に、映画やゲームの三次元グラフィックスが、実写のような表現であることにいう。フォトリアリスティック。
デジタル大辞泉 https://www.weblio.jp/content/フォトリアル

フォトリアルとは物理世界そのものではなく,物理世界を撮影した写真のように写実的な表現のことを指すらしい.三次元の物理世界を二次元の写真に変換して,写真のような3DCGをつくるのはどこかねじれている感じがする.

前回のnoteに書いたように,私たちが記号的表現から一度,三次元モデルの表現に膨張して,感覚データに基づいた二次元の表現に縮減された「風景」を意識にあげているとすると,フォトリアルな3DCGが行っていることは,このプロセスに似ているのかもしれない.最終的に二次元の表現を行うために,三次元のモデルという「膨張」した表現を行う.

一度三次元に膨張した表現を二次元にしたときに刈り込まれた情報はなんなのだろうかと考えると,それは「幾何情報」なのではないだろうかと考えた.オブジェクトのパーツ同士が持っている「幾何情報」が失われて,ディスプレイに敷き詰められたピクセルの情報へと変換されていく.三次元モデルをディスプレイに「焼き付ける」ような感じだろうか.そのときに3DCGオブジェクトを形成する「幾何情報」だけではなく,オブジェクト周囲の空間の情報も失われるのではないだろうか.つまり,3DCGモデルのオブジェクトとその周囲の空間の幾何情報を削除して,2Dの画像にするということが起こっている.だとすると,フォトリアルな3DCGで「膨張」している部分にあたるのは「オブジェクトとその周囲の空間の幾何情報」ということになるだろうか.

私は「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳:3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス」で,アーティストの山形一生の作品を取り上げて,彼の作品ではディスプレイは「窓」ではなく,「型」になっているのではないかと考えた.ディスプレイという「型」で,3DCGモデルの「膨張」した部分である「オブジェクトとその周囲の空間の幾何情報」も失うことなく,切り出してしまうというということである.ただし,「型」と考えたとしても,ディスプレイはディスプレイであるので,「型」で切り抜かれた3DCGも「窓」に焼き付けられた3DCGも見え方は変わらないのかもしれない.しかし,物質的な見え方は変化しないとしても,その3DCGを見るヒトに立ち現れる現象が「膨張」したままになることはあるだろう.ディスプレイという物質的なレベルでは同一の光の配列であっても,そこに至るプロセスのちがいによって,あるいは見るヒトの意識の違いによって,3DCGがもつ表現の「膨張」した部分は残るかもしれない.私はそのような表現に興味があるのだろう.

フォトリアルな3DCGも物理的にはディスプレイの二次元に削減されとしても,「膨張」した部分が見るヒトの意識のなかに現象として立ち現れて,「フォトリアル」とは言えない表現になるのかもしれない.

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「フォトリアル」と検索していたときに見つけたパネルディスカッション.登壇者3名のうち2名がフォトリアルな3DCGをつくり,1名がフォトリアルな質感を持ちながら異なる表現を行っている.

以下は今回のnoteで言及した自分のテキスト


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