253:「これまで見ていたイメージ」を「これまで見たことがないイメージ」として見せられていたと感じるのはなぜか?
村本さんが「252:《Imagraph》で見るイメージは通常とは異なる回路で処理されているイメージ👁️」を読んでくれて送ってくれたコメントに「Imagraphのディスプレイを「既存のディスプレイとは違う神秘的なもの」という風に外部化せず」という一文があった.私のテキストは《Imagraph》を神秘化して.「これまで見たことがないイメージを見せられていた」と考えているきらいがあったと気付かされた.
この気づきから《Imagraph》を再度考えてみたい.今回は「《Imagraph》を体験する私」を示す画像から,作品考察を始めてみたい.《Imagraph》を体験するときに,私は瞼を閉じていて,瞼の上に直接光ファイバーの束が押し付けられている.とても多くの光ファイバーが瞼とディスプレイを繋いでいる.光ファイバーはディスプレイのピクセルを私の瞼に転写するかのように,私とディスプレイとの間を満たしている.
この画像から考えると,「これまで見たことがないイメージを見せられていた」というのは間違いなのではないだろうかと思う.ピクセルの一つ一つから光ファイバーが伸びて,ディスプレイと同じ配列のまま瞼に光が届けられているのなら,ディスプレイに表示された映像の縮小版が瞼までは届けられていると言えるだろう.光が瞼を透過する起こる「肉に固有の血色を補償」されているので,原理的には,ディスプレイの映像はピクセル単位で私に届けられていて,そのことを上の画像の光ファイバーの束が示している.ということは,《Imagraph》は私が体験しているよりも鮮明な映像を見せている,言い換えると,私は「これまで見ていたイメージを見せられていた」となるだろう.
しかし,私は《Imagraph》を体験しているとき,「これまで見たことがないイメージを見せられていた」という感じを強く抱いている.では,瞼に与えられているのは「これまで見ていたイメージ」なのに,私は「これまで見たことがないイメージを見せられていた」と感じるのはなぜなのだろうか.
まずは,ピクセルがダイレクトに眼の直近の瞼に届けられるという状況が,ピクセルの性質を変えていると考えられる.通常では,ピクセルの光は直接,私の眼に届くわけではない.ピクセルが放つ光は空間を満たす光と混じり合って,私の眼に入ってくる.空間に存在する物質からの反射光に混じって,ピクセルから放射される光が眼に届くことで,ピクセルは物質ではないという状態をつくり,映像として認知される.しかし,《Imagraph》ではピクセルの光がダイレクトに瞼までに届けられるために,物質との差異を持たない「純粋なピクセル」として,体験者に届けられる.
では,瞼に届けられる「純粋なピクセル」が「これまで見たことがないイメージ」なのかと言われると,それはディスプレイに表示されたピクセルの配列を保っているので,ディスプレイに見ているイメージとしてよく見ているものとなるだろう.ピクセルそれ自体の配列がつくるイメージは周囲の光から隔絶している点を除けば,「これまで見ていたイメージ」となる.言ってみれば,Apple Vision ProのようなHMDのようなものであろう.
HMDと《Imagraph》とが異なるのは,ピクセルと瞼とを有線で繋いでいる点になるだろう.ピクセルが瞼に触れている.このことを,前回も引用したジェルジ・ブザーキが『脳のリズム』で「まぶたが閉じられるとすぐ,眼球はルーティンである,視覚世界を調べるための遅い弾道運動をやめる」と書いていることから考えたい.《Imagraph》を体験するということは,瞼を閉じることなので,体験者は世界の探索をやめた状態にある.世界の探索をやめた状態で,瞼にピクセルの光を届ける光ファイバーの束が触れているということはどう考えればいいのか.視覚的には世界の探索をやめているけれど,触覚的には世界の探索は続けられているということになるだろうか.しかし,触覚は常に触れているものを感じ続けてはいるが,意識に上がらなくなってくる.私の作品体験でも,瞼に押し当てられた光ファイバーの束は最初は感じていたが,作品を見るための色調補正をしているあいだにほとんど気にならなくなっていた.
このように考えてみると,《Imagraph》を体験している私は瞼を透して「これまで見ていたイメージを見せられていた」いるのだが,瞼を閉じている私は視覚世界の探索をやめる認知モードに入っているために「これまで見たことがないイメージ」を見ていたということになるだろう.ここで自分が見ていたものをディスプレイが表示していると取り違えて,《Imagraph》が「これまでにないイメージを見せていた」と私は感じるようになったのだろう.実際は,《Imagraph》自体が見せるイメージは通常のディスプレイとあまり変わりがないが,それを見る人が瞼を閉じた状態から別のイメージをつくりあげてしまうということが起こっていたということになる.その際に,瞼を閉じているということが認知のモードを変える決定的なジャンクションになっているのは確かだが,今回検討した物質からの反射光と混ざっていない「純粋なピクセル」を見ることや,瞼の上に「純粋なピクセル」(を届ける光ファイバー)が触れているという体験も影響はしているだろう.
もう少し考えてみたい.
ピーター・ゴドフリー=スミスはマーク・ロスコの作品体験は一般的な視覚体験とは異なるから魅力なのだと,次のように書いている.
瞼を透して見ることを促す《Imagraph》体験は,ピーター・ゴドフリー=スミスがロスコ体験で書くように「ものを見ることのふつうのあり方を逸脱している」.ロスコ経験は瞼を開けた状態で視覚における探索を停止させるのが通常からの逸脱となり,《Imagraph》体験は瞼を閉じた状態で視覚に探索させようとするのが通常からの逸脱となっている.見ているのは絵画であり,ディスプレイであって,そこで提示されているイメージ自体は他と変わりがあるわけでない.ただ,ロスコ経験,《Imagraph》体験はそこに提示されているイメージを見る者の認知モードを一般的な働きとは異なるものに変えてしまうがゆえに,イメージを「これまで見たことがないイメージ」として認知してしまう.
繰り返しになってしまうが,《Imagraph》体験において,イメージを見る者の認知モードを変えてしまうジャンクションは瞼を閉じることにある.しかし,ディスプレイから瞼にダイレクトに届けられる「純粋なピクセル」を見て,それに触れているという情報もまたジャンクションを機能させていると考えられる.特に,通常は世界を視覚的に探索する器官である眼の直上にある瞼を閉じて,眼と瞼のセットで触覚的に世界を探索する状況の継続がつくる影響は大きなものがあるのではないか.触覚は時間とともに意識に上ることがなくなってくるが,ここには《Imagraph》体験をつくる何かが少なくない割合で含まれていると思う.なぜなら,体験を思い返すと,通常の視覚と触覚はそれぞれの感覚情報があとで統合されている感じがあるが,《Imagraph》で起きている視覚と触覚との統合は,それぞれの感覚情報が統合される前にすでに統合してしまっている感じがあるからである.でも,そのように感じられるだけで,その何かが何なのかはまだわからない.
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