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23時の山手線

世界がこうなる前、23時の山手線は熱気と疲労で密度があった。
会社の飲み会の帰りだったか、その日はちまちまと長く飲んでいて(普段なら酔いどれていたのだが)、どことなく冷静に妙な明るさのある車両を眺めていた。
ドア付近で大きく手を叩いて話す集団、端の席で首がもげそうなほど深い眠りについている人、メッセージを打っては目を瞑り、またすぐに確認して目を瞑る人、寄っかかれそうになりながら肩を狭くしてみちりと文庫本を読む人‥
「次は有楽町、有楽町」
ふいに左が軽くなり、前屈みに鞄を抱えた隣の人が離れていく。すぐさま、少し横側に立っていた女性がぽすんと座った。ずっと鼻を啜っている。
(寒くなってきたもんなぁ‥)
1月も終わりごろになって新年会シーズンも過ぎ、飲み会疲れと寒さで周りの人もちらほら体調を崩していた。
がしゃがしゃと鞄を漁る音が聞こえて、鼻を啜る音が強くなる。凝視するのは失礼と思いつつ、気になりすぎて目の端で見ると、鼻に当てたティッシュにじんわりと血がにじんでいた。
(‥!!)
手元を見るとティッシュは残り一枚で必死に鞄を隈なく探している。
「これよかったら‥」
流石に見るのは失礼とか言ってられなくなり、たまたまもらったティッシュを二つほど渡すと、
「うわあああ、ありがとうございます!」
ものすごく前のめりに感謝された。嬉しかったけれど恥ずかしくて、まだ降りる駅でないけど降りてしまいたかったが、
「本当に助かりました、ありがとうございます!」
重ねてお礼を言ってもらえて完全に席を立つタイミングを失ってしまった。きちんと会話はできているけれど、言葉の端っこがふわふわしていてきっとこの人も飲み会帰りなのかなと思った。
「急にね、来ちゃったんです。何年もなかったんですけど」
「分かります。私もこないだ3.4年ぶりくらいに出ました。乾燥してるからですかね‥」
恥ずかしさを誤魔化したいのか、はたまた話したい気分なのか、初対面の人とひとしきり鼻血について話し、そのまま仕事の話になっていく。どうやらお姉さんだと思っていたその人は同い年で、入社年次も同じようだ。新卒でとある(ファッションに疎い私でも知っている)アパレルメーカーに勤務していて、今は百貨店の店員さんをやっているらしい。
「服が好きで‥毎日色々考えながらお客さんとお話をするのは楽しいんですけど、やっぱりいろんな人がいて難しいです」
「そうですよね、こう、皆さん探し方も違うんだろうし‥」
「そうなんです、こう、なんていうか、これだ!みたいな、手応えがあっても次の日には大したことなかったって思えてきて」
まぁ、最初から大したことないだけだったんでしょうけど。その人は笑いながら前を見たが、その表情に胸がぎゅっとした。わかりますって言いたかったのに、喉で言葉が引っかかる。
「次は上野、上野」
あ、次降りなきゃ。その人が確かめるように呟く。
「これ、あげます」
またガサゴソと鞄を漁り始めたと思ったら、取り出されたのはファッション誌だった、ずっしりと重い。
「内容充実してていいですよ、お礼です」
「いやこんなもらえないですよ」
「いいんです」
じゃ、さよなら!大量のティッシュのゴミを鞄に突っ込み、ひらりと肩にかけてその人は行ってしまった。すぐさま左側に人が座る、流れ作業みたいに。
(‥初めて見る雑誌だ。)
手元に残された雑誌をパラパラとめくる、かっこいい服、可愛い服、コスメの紹介、指輪をつける場所の意味、開運フード、どれもきらきらとしていて、ひとつひとつのキャッチフレーズにくすぐられる。これらがどう素晴らしいのかは、あの人ほどには分からないのだと思うけれど、それでも。
「次は池袋、池袋」
私も降りなきゃ。ファッション誌は大きくて私の鞄には入らなかった。小脇にかかえて席を立つと、するりと前に立っていた人が座る。
人の波の中に紛れて、背中で山手線がまた回りだした。

あれからおよそ2年が経ち、私は東京から大阪に転勤した。本棚には、あの時にもらった雑誌がある。
「次は本町です」
あの人は、今もどこかのお店で、あるいはまた別のどこかで、悩みながら颯爽と生きているのだろうか、もう会うこともないだろうけれど、ふと思った。

#はたらくってなんだろう

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