らくに、なりたい

唐突な書き出しだが、わたしは自己肯定感が桁違いに低い人間である。最早肯定感など存在しないと言っても過言では無いレベルだ。
そしてそれをよく親に咎められる。

理不尽だな、と思う。


幼少期より周囲から全てにおいて友人と比べられ、手放しで褒めてもらう機会がほとんどなかった。
肯定感が芽生える前に摘み取られてしまったようなものだ。

その原因はひとえに幼稚園の頃にすごく美人な女の子と、後に日本一と謳われる国立大学に進学する天才的な男の子という幼なじみを持ってしまったこと。
それが運の尽きである。

別に彼らのことは嫌いではないが、彼らと出会わなかった世界線のわたしの性格や人生は、きっともっと健やかなものだっただろうとは今でも考えたりする。

幼いときに柔らかく、どんな形にでもなれそうだったわたしの心の核は、事ある毎に彼らと比べられたことによってひねくれた。それはもう、ものすごくひねくれた。

失敗するとあの子はこうなのにと怒られ、上手くいったとしてもあの子たちはもっとできたみたいよと言われる。
じゃあ彼らが踏み出していないようなフィールドで何かを成し遂げたら比べられないのかと考え努力をしてみたこともあるが、それでも真っ直ぐな言葉はもらえなかった。

受験の時も人生でいちばん頑張って結果を出したのに、最初にもらえた言葉は「絶対嘘!なにかの間違いじゃない?」だった。

そのあとおめでとうと言われた気もするが、第一声の印象が強烈すぎてもう覚えていない。
きっと言った側は覚えていないだろうが、言われた側は一生覚えているというのはまさにこの事である。
ちなみに学校を卒業するのその時まで合格したことを信じていないようなニュアンスの言葉をもらい続けた。

その都度笑って聞き流していたわたしの中身は、それらの蓄積によってもう見事に砕け散ってしまったのだ。

楽に、なりたい。

比較した側は無意識なのだろうし、デリカシーがないだけで悪意がないのだろうということもわかっている。

大人になったからわかるようになった、という方が正しいかもしれないが、とりあえず理解はしているつもりだ。


だが、わたしの中身はもうひん曲がってしまっているので、理解はしていても受け入れることはできていない。

だから今でも、他人を比較対象とした持ってこられると吐き気がするぐらい嫌な気持ちになるし、足元が崩れ落ちていく音がはっきりと聞こえるし、消えてしまいたくなる気持ちになる。

嘘でもいいし、お世辞でもいいから、真っ直ぐに肯定する言葉をもっともらいたかった。

そうしたらこんな人間になることもなかったし、幼なじみたちのことをもっと大切に思えたかもしれない。

ぜんぶもしもの話だから仕方がないことはわかっているのに、そんなことばかり考えてしまう。

楽に、なりたい。

今日もわたしの友人のことを褒める言葉は聞くのに、フォローする言葉は聞くのに、わたしに対しては見せかけでも優しい言葉のひとつも降ってこない。
なんなら少し愚痴をこぼしてしまったことを言外に責められてまでいる。

本当に何故か分からないけど、客観的に見てもわたしに向けられる言葉の節々に棘が含まれているのだ。
他の子が同じ言動をしても怒られないのに、わたしだけとんでもないレベルで怒られたりもする。

褒められたくてやってるわけじゃない、認められたくてやってるわけじゃないが、やっぱりなにかを諦めきれずにいて、このギャップがあまりにもこう、辛い。


自分で認めてあげられればそれも少しは楽になるのだろうけど、それすらもできない。最早生き地獄に近い。


だからわたしは、全然ちがう人になりたくて今日も芝居にのめりこむ。
役について考え苦しんで潜ってもがいてなにかを生み出す。
しんどくても、上手くいかない時があっても、唯一心の安寧をえられるひと時が芝居なのだ。

でもそれについても良い顔をされない。
あのこたちは褒められるのに、わたしは褒められないどころか否定される。

もうどうしたらいいんだろう。
誰かに肯定してもらえたら楽になれるのかと思っていたけど、肯定してもらえたとしても素直に信じることはもっと出来そうにない。
どうやったら楽になれるんだろう。


どうやったら、どうにかして、いつかどこかで

らくになりたい。

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