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私が経験した東日本大震災のおはなし①

こんにちは。むむまるです。

私は生まれも育ちも宮城の女子大生。

最近災害などが増えてきて、東日本大地震のことを思い出す機会が増えたので忘れないようにここに残します。

気分が悪くなる可能性はゼロではないのでご注意を…

そして、私自身も実は震災があったことを受け止めきれずに今まで生活していました。

この機会に色々と向き合おうと思います。

ちなみに被災者ではありますが、被害は周りと比べると少なかった家庭の人です。
それでも経験した者として、自分の体験したことはカタチに残したいと思います。


当時の話


2011年3月11日、当時私は小学四年生でした。

この後行われる算数のテストの話をしながら先生が教室に来るのを待っていました。


14時46分

先生がドアを開けて

「今日は算数のテストだぞーみんな準備しt…」


ガタガタガタガタガタガタガタガタガタ



先生が来たと同時に地震が来ました。

座っていても椅子から落ちそうになるくらい揺れて、
先生も私たちも机の下に隠れました。

私の席は窓際で鍵盤ハーモニカの棚がすぐ隣にあります。

その棚から地震の揺れでハーモニカがたくさん落ち、私の机と頭にぶつかりました。そして窓ガラスも割れ、私は姿勢を反対側を向く形にすぐ変えました。あと少し机が窓に近かったら破片が頭に刺さっていたでしょう。

後ろの席の女の子は泣き出し、「怖い、どうしよう…」とずっと言っていました。

揺れが続く中、私と男の子2人でその女の子に

「大丈夫だよ、みんないるから!」と声をかけ続けました。

今思えば同じ学年の子たちはみんな優しかったからこそこんなことが緊急時にもできたのだと思います。

そんな話をしていると揺れが少しずつおさまり、
机から先生が出ようとすると…

ゴゴゴゴ…ガタガタガタガタガタガタ


と地鳴りと揺れがまたやってきました。

他の教室から悲鳴が聞こえてきたのをよく覚えています。

当時の私は何が起こっているのか理解ができず、
ただ泣いている子に声をかけることしか考えることができませんでした。


全校で避難

そして少し揺れがおさまった後、私たちは体育館に避難しました。

私の地域は内陸部であったため、津波などの心配はありません。

ただ、地震の被害は学校もかなり受けていたのだなと落ち着いてから気付きました。

体育館には数日後に行われる予定だった卒業式の準備が見えました。

体育館の照明や天井に挟まったボール、バスケットゴールも下に落ちていました。

そんな中でも安全な所に私たち生徒は座らせられ、
保護者が迎えに来るのをただひたすらに待ちました。


幼馴染のお母さんが幼馴染の姉妹を迎えに来たのをみて、手を振るとそのお母さんが

「本当は一緒に帰りたいけど、
すれ違いになったら大変だから先に帰るね…

携帯電話が今繋がらなくなっていてお母さんと繋がらないけど、きっと待っていれば会えるから…!!」

そう言って帰っていったのを覚えています。



全校生徒が150人ほどの学校でしたが、
私はあと30人くらいの所まで残っていました。

もしかしてお母さんに何かあったのではないか??
このまま迎えに来なかったらどうしよう…


そう不安に感じ始めた時、母が迎えに来ました。

それまで我慢していた気持ちが母を見たら溢れて、

「なんで早く来てくれなかったの…??
地震怖かった…1人になると思った…」

そういいながらたくさん泣きました。

母は家も地震でたくさんのものが壊れてしまい、
ガラスが床にたくさん落ちていて危ないから先に片付けてきたと教えてくれました。

そんな話をしながら、電気も水も今は使えなくなったから、食料と電池を買いに行こうとお店がある方の地域へ向かいました。


帰宅する道中




お店がある方の地域へ向かう途中に私が見たのは、

・崩れて跡形もなく消えていた家屋
・飛び出たマンホール
・倒れた大きな木

至る所で火事も起こり、サイレンも鳴り止まない状態でした。

そこで私は、今回の地震は今までに経験したものの中で1番大きくて大人にとっても恐ろしいものであったのだと感じました。



スーパーに行くとすでにたくさんの人がおり、
店員さんが商品を店の外に出し、販売していました。

主食になりそうな物はもうすでになくなっていたので、
私たちはゼリーやお菓子を買いました。

電池も2人でいったので2つ買うことが出来ました。

そして車で帰宅すると、私の家も被害にあっていたことを感じざるを得ませんでした。

家の形はあるし、住むことはできるけれど朝見た様子とは全然違うもので今後どう過ごすか考えました。

結局広い部屋だと寒いので、私の部屋に集まり過ごそうということになりました。

夜になると雪が降ってだんだん寒くなり、ラジオを聞きながら父が帰ってくるのを待ちました。

待っている間、私と母はラジオを聴き地震だけでなく、津波で大きな被害が出ていることを知りました。


母の実家は、沿岸部にあります。

携帯電話や近所の公衆電話で連絡をしようと試みましたが、つながりませんでした。

私は自分のことしか考えられませんでしたが、
今思えば母はかなり不安で仕方がなかったと思います。

祖父は透析患者であり、祖母は足が不自由だったので2人一緒にはいないだろう。

どちらも山へ逃げていてほしい。そう願っていました。


その日はいつもなら9時には寝る私も、眠れずに起きていました。
懐中電灯や石油ストーブの光とラジオの音しかない空間。

そんな時に家のドアが開く音がして、父が帰ってきました。

車のガソリンもギリギリで、道路がかなり混んでいたため、深夜に自宅に着いたようです。

父もちょうどその日は沿岸部の方に仕事がなかったため、無事でした。


『私の周りの家族はみんな生きている』

私はこう思い、その日は安心していました。

そしてお風呂にも入れないので身体だけを拭いて3人で体を寄せ合って眠りにつきました。


次に続く、、、

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