【訃報】西郷輝彦さん/「君こそライオンズ」(1974年)

歌手・俳優の西郷輝彦さんが亡くなった。75歳であった。

西郷輝彦こと今川盛揮は1947年生まれで、鹿児島県鹿児島市出身。
歌手を目指して、15歳で単身、大阪に向かい、その後、大阪、京都、名古屋を転々としながらバンドボーイとして活動しているところを、芸能プロダクション「龍美プロ」を設立した相澤秀禎に誘われる。

この「龍美プロ」こそ、後のサンミュージックプロダクションの前身であり、社長の相澤秀禎は敏腕マネージャーとして、森田健作、桜田淳子、太川陽介、松田聖子、香坂みゆき、早見優、岡田有希子、酒井法子、安達祐実らを次々とデビューさせるのである。

西郷輝彦の芸名は地元の英雄、西郷隆盛から取り、1964年2月、シングル「君だけを」でデビューすると、売上60万枚のヒットを飛ばした。
続くシングル「十七才のこの胸に」もヒットし、その年の第6回日本レコード大賞新人賞を獲得。同名の映画「十七才のこの胸に」で俳優デビューも飾った。

1966年に発売した「星のフラメンコ」は、30万枚を売上げ、歌手として不動の人気を得るところとなり、当時、人気絶頂を誇った舟木一夫(77歳)、橋幸夫(78歳)と共に「御三家」と呼ばれた。

1972年に、歌手の辺見マリと結婚。マリとの間に一男一女をもうけ、1976年には長女・えみりが誕生した。
1973年、フジテレビ系のテレビドラマ「どてらい男(ヤツ)」(制作:関西テレビ)では主役の山下猛造役で主演、高視聴率を獲得すると、映画化もされ、テレビドラマは総集編を含めると1977年まで続いた。

1975年からは時代劇にも進出し、TBS系の時代劇ドラマ「水戸黄門・第6部」の第1話以降、度々ゲストとして招かれ出演しているが、「水戸黄門」への出演がきっかけで、時代劇「江戸を斬る」の主演・遠山金四郎役を得て、さらなる人気を博した。

1983年には、映画「小説吉田学校」で田中角栄を演じると、同年からはTBS系のクイズ番組「アップダウンクイズ」(制作:毎日放送)の3代目司会者に就任した。
その後、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)の片倉景綱役や、時代劇「水戸黄門」(TBS系)の松平頼常役でもおなじみであった。
2008年、西郷の地元にある鹿児島テレビが制作したドラマ「南洲翁異聞」では、ついに念願叶って、西郷隆盛役を務めた。

俳優活動の傍ら、歌手活動も継続し、作詞・作曲も自身で手掛けるなど、2013年までシングル93枚、オリジナルアルバム9枚をリリースした。
2000年には、「御三家」の橋幸夫、舟木一夫とともに「G3K(御三家)」名義でシングル「小さな手紙」をリリースすると、「G3Kツアー」と銘打ち、2000年10月から2001年12月まで全国100か所以上を3人で廻り、コンサートを行っていた。

・・・とここまで書いて、西郷さんと野球と何の関係が?と思っただろうが、
西郷さんは、ライオンズ2代目球団歌「君こそライオンズ」というシングルをリリースしているのである。

ライオンズ2代目球団歌「君こそライオンズ」

この曲は、西武ライオンズの前身である、西鉄ライオンズが太平洋クラブライオンズに球団名を変更した1973年、初代球団歌である「西鉄ライオンズの歌」に代わる球団歌として、一般からの公募により選出、発表された。
当初、「恋の季節」(1968年)で270万枚のメガヒットを飛ばしたピンキーとキラーズからソロに転向した今陽子が歌唱したバージョンが使われていたが、レコード化はされず(残念ながら、音源が見つからなかった)、1974年の開幕頃にはライオンズの本拠地・平和台球場では、西郷輝彦が歌唱するバージョンが流れるようになった。
同年7月10日、西郷輝彦の通算70枚目のシングルとして発売された。

作詞は黒瀬泰宏(一般公募であるため、どのような人物が情報がなかった)。
作曲はジャズピアニストでもある中村八大(はちだい)で、1960年代に、「上を向いて歩こう」、「こんにちは赤ちゃん」、「遠くへ行きたい」、「明日があるさ」などの数々の名曲を生み出した日本を代表する作曲家である。
中村は父親の故郷が福岡県久留米市で、そこで終戦を迎え、上京するまで彼の地で青春を送っているため、福岡とは浅からぬ縁がある。

また、補作詞を務めた本間繁義は長崎市出身だが、1993年、福岡で福岡第一商業(現・第一経済大学付属高校)芸能塾の講師となり、ある高校生の歌唱指導を3年に渡って行っている。
それが他ならぬ、氷川きよしである。

そして、編曲を手掛けた小杉仁三はクラウンレコード専属の編曲家を務めたこともあり、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」(作詞:星野哲郎)、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」(作曲:浜口庫之助)などを手掛け、西郷輝彦の「星のフラメンコ」(作曲:浜口庫之助)、「傷だらけの天使」の編曲も小杉の手によるものである。

「君こそライオンズ」はイントロから軍歌調ではあるが、西郷の低音が響くボーカルと泥臭い歌詞がマッチし、そして、サビからの転調が印象に残る、隠れた名曲である。

「君こそライオンズ」
歌/西郷輝彦
作詞/黒瀬泰宏 補作詞/本間繁義
作曲/中村八大
編曲/小杉仁三


日焼けた顔に良く似合う
君が着ているユニフォーム
歯を食いしばり耐えた日を
君の笑顔は知っている
胸を張って燃えていこう
君こそライオンズ
君こそライオンズ

自分の好きな道だから
泣いて苦労を買いたまえ
汗がにじんだ 本当の
君の力を見せてくれ
胸を張って燃えていこう
君こそライオンズ
君こそライオンズ

彼奴(あいつ)にできることだから
君にやれないわけがない
明日という日を待たないで
この一瞬に火を付けろ
胸を張って燃えていこう
君こそライオンズ
君こそライオンズ


僕としては、今季、ライオンズの試合で、氷川きよしがこの歌を熱唱してくれることを夢想している。

西郷輝彦さん、安らかにお眠りください。


【参考】1974年の太平洋クラブライオンズ

1974年、ライオンズは稲尾和久監督が5年目の指揮を執った。
ライオンズは「黒い霧事件」によって西鉄が太平洋クラブに身売りして以来、人気凋落と財政難に苦しんでいた。
太平洋のフロントは乾坤一擲の策として、前年1973年に、ロッテ金田正一監督にロッテとの「対立」を演出したいと持ち掛けた。
太平洋のフロントには中村長芳オーナーを始めロッテ球団の出身者が多く、一方、ショーマンシップに溢れる金田監督もこの提案に乗ったが、このことは太平洋フロントと金田との「密約」であったため、ごく一部の球団関係者しか知らされていなかったという。

1973年5月、川崎球場でのロッテ対太平洋戦では、大量ビハインドに激高した太平洋ファンがスタンドから空き缶やビンを投げ込むなど試合が中断した。
さらに、金田は稲尾の采配を捉えて「こじき監督、どん百姓」と罵った(金田と稲尾は元来、仲が良く、稲尾はあらかじめ知らされていた)。

太平洋フロントはパ・リーグ連盟を巻き込み、金田監督の「暴言」に抗議する声明を発表すると、太平洋ファンはますますヒートアップ。
6月、平和台球場でのロッテ戦では太平洋ファンを抑えるため、地元の福岡警察と機動隊が出動する有り様となった。
その後も、ロッテとのホームゲームでは試合中、試合後、グラウンド内外を問わず、トラブルが絶えなくなり、両軍のカードは「遺恨試合」ともいわれるようになっていた。

翌年1974年、4月27日、平和台球場での太平洋対ロッテ戦ではその「遺恨」が頂点に達した。
本塁でのラフプレーを巡り、金田監督が激高、太平洋の捕手・宮寺勝利に蹴りを入れたことで、三塁手のドン・ビュフォードが金田監督を乱闘で押し倒した。
すると、太平洋はこの時の乱闘シーンの写真を使ってポスターを作成し、福岡の街にバラまいた。
「今日も博多に血の雨が降る!」
後に、福岡警察と福岡市からポスターの撤収を命じられる事態となり、こうしたフロントのなりふり構わない集客の姿勢に稲尾も不信を抱くようになり、両者の間では不協和音が出始めていた。

結果、ライオンズは2年連続4位に終わり、5年連続Bクラスと低迷から脱せず、オフに稲尾和久は監督辞任を余儀なくされた。
後任には熊本出身のスラッガー、江藤慎一が選手兼任監督として就任した。
1975年のシーズン、江藤は選手としては通算2000安打に到達、監督としては「野武士野球」を標榜して、8年ぶりにAクラスに食い込むが、太平洋フロントの「迷走」する方針転換で、1年で退団に追い込まれた。
1977年にはクラウンライターライオンズにチーム名を変えるが、低迷と財政難を脱することはできず、1978年オフにライオンズは福岡を去ることになる。

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