元祖「ハマのエース」遠藤一彦の野球人生(前編)


元祖「ハマのエース」・遠藤一彦

横浜DeNAベイスターズのエースといえば、左腕・東克樹だ。

東克樹は2024年5月19日、横浜スタジアムでの対中日ドラゴンズ戦に先発し、同球場での登板で10連勝を達成した。

東は8回途中、7回2/3を投げ、被安打6、1失点に抑え、今季開幕戦登板から負けなしの4連勝を飾った。

では、東克樹よりも前の「ハマのエース」といえば、誰を思い浮かべるだろうか。
最近のファンであれば、今季から、MLBに移籍した今永昇太(シカゴ・カブス、2016-2023年在籍、通算64勝)、それ以前からのファンであれば、現監督の三浦大輔(1992-2016年在籍、通算172勝)であろう。

ホエールズ時代からのオールドファンからすれば、秋山登(1956年-1967年在籍、通算193勝)、平松政次(1967年-1984年在籍、通算203勝)も挙がるかもしれないが、彼らはホエールズが川崎球場を本拠地にしていた時代(1955年-1978年)が自身の全盛期だったエースである。

元祖「ハマのエース」といえば、やはり遠藤一彦なのである。
スマートな長身で右腕から投げ下ろす制球されたノビのあるストレートと、代名詞だった、角度のあるフォークボール。
現役時代から、エリート会社員のようなスマートな風貌で、メガネメーカーのTVCMのキャラクターに起用されたこともある。

遠藤さんは抑えに廻っていた時期もあるが、ひとたび、先発マウンドに上がれば、援護がなくても投げ続け、いくら打たれても投げ続け、相手チームのエースと堂々と投げ合う。

特に同期だったジャイアンツの江川卓との投げ合い、江川らと競って1983年・1984年のセ・リーグ最多勝争いを制したのは圧巻だった。

ホエールズ・ベイスターズの投手で沢村賞を受賞しているのは、平松政次さん(1970年)と遠藤一彦さん(1983年)だけで、遠藤さん以後は現れていない。

先日、東が横浜スタジアムで10連勝を達成したが、これは遠藤さんが1984年・1985年にかけてつくった10連勝に並ぶものだし、
昨年2023年、東はシーズン12連勝を達成したが、これも1983年に遠藤さんがつくった12連勝に並ぶものだった。

「横浜大洋ホエールズ」の15年とともにあったエース

遠藤さんは大洋ホエールズが横浜スタジアムへの移転を決めた1977年のオフ、ドラフト3位で指名を受け入団している。
そして、大洋ホエールズは移転と同時に「横浜大洋ホエールズ」に改称する。

従って、遠藤さんは「横浜大洋ホエールズ」のドラフト1期生である。

そして、1992年オフ、遠藤一彦さんは37歳で現役引退しているが、親会社の大洋漁業がマルハに社名変更すると同時に、ホエールズも次のシーズンから、「横浜ベイスターズ」と改称することになった。
すなわち、遠藤一彦さんの15年間のプロ野球人生はまさに、「横浜大洋ホエールズ」の15年と共にあったものである。

横浜大洋ホエールズはその15年の歴史のうち、レギュラーシーズンでAクラスはたった3度だけ(1979年・2位、1983年・3位、1990年・3位)。
遠藤さんは、リーグ優勝にも日本シリーズにも縁はなかった。
それでも、2年連続最多勝のタイトルを獲得し、通算134勝128敗、58セーブを挙げたのだ。

その遠藤一彦さんが、今季の交流戦で横浜スタジアムで主催される試合で、対戦チームのOBと「一打席対決」に登場するという。
6月6日のオリックス・バファローズ戦の試合前で、迎える相手は阪神・オリックス・ダイエーで活躍した、日本球界が生んだ最高のスイッチヒッターこと、松永浩美さんだ。


遠藤一彦氏
1977年ドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団。2年目に47試合12勝8セーブでホエールズの主力投手になると、1982年から6年連続2桁勝利、2桁完投を記録。1983年は18勝16完投、186奪三振、防御率2.87の成績で最多勝、最優秀投手、沢村賞のタイトルを獲得した。
1955年4月19日生まれ/68歳/右投右打/投手/福島県西白河郡西郷村出身
NPB通算成績:460試合 134勝 58セーブ 109完投 1654奪三振 防御率3.49

遠藤一彦氏コメント
「松永さんとの対戦は、オールスターで三度対戦して以来です。オールスターでは松永さんを抑えていたので、今回の対戦でも抑えられるように頑張ります。ファンの皆さんも応援よろしくお願いします!」


これを機に、大洋ホエールズ時代を知らないファンにも、遠藤一彦さんが「ハマのエース」という称号に相応しい投手であったことをぜひ、知っていただきたい。


横浜大洋ホエールズの「ハマのエース」、遠藤一彦さんの野球人生を振り返ってみよう。

長嶋茂雄に憧れ、「三沢高校対松山商業戦」で甲子園を目指す


遠藤一彦は1955年4月19日、福島県西白河郡西郷村に生まれた。

3人きょうだいの末っ子で、二人の姉は陸上競技で国体やインターハイに出場するほどの実力を持っており、一彦少年も足の速さには自信があった。
父は一彦少年にも陸上を薦めたが、一彦少年はテレビに映る巨人戦での長嶋茂雄の雄姿に釘付けとなった。
中学から念願の野球部に入部、県大会に進んだ。
中三の時に、夏の甲子園大会の決勝、三沢高校対松山商業の試合を観て、自らも甲子園に行きたいという思いが強まった。

学法石川に脚力を買われて野手で入部も、エースで4番に

その頃、地元・学法石川の野球部・柳沢泰典監督の目に止まった。投手ではなく、脚力を買われて野手としてのスカウトだった。

学法石川高校では1年生から外野手のレギュラーを掴み、「4番・センター」、控え投手を兼ねた。
2年生の時に、夏の東北地区予選の決勝まで進んだが、敗退。
3年生の時に、夏の甲子園大会は第55回の記念大会を迎え、「1県1校」の出場となった。
遠藤はエースで4番を務め、福島県大会を勝ち上がり、決勝を迎えた。
監督からは「(決勝戦は)連戦だから(遠藤とは)別のピッチャーで行く」と言われたものの、遠藤は投げないで負ければ後悔が残ると思い、『自分に投げさせてください』と直訴してマウンドに立ったという。
結果は、1-2で敗れ去り、憧れの甲子園は夢と消えた。

遠藤の同級生には、江川卓、山倉和博(ともに巨人)、掛布雅之(阪神)、大野豊、達川光男(広島)、平野謙、中尾孝義(中日ほか)らがいた。
この時の夏の甲子園大会(第55回)は、江川卓擁する作新学院(栃木)が2回戦で敗退、達川光男が正捕手を務め、春のセンバツで準優勝に泣いた広島商(広島)がまたも決勝まで進み、2-1のサヨナラ勝ちで5度目の優勝を収めている。

建築家を目指し、東海大学工学部建築学科へ

甲子園行きを逃した遠藤には、もはや野球に未練がなかったと言えば嘘になる。
しかし、遠藤には次なる夢があった。
建築家になるという志があり、大学進学を目指して受験勉強に励んでいた。
それでも遠藤のもとには日立製作所から誘いがあったり、学法石川の監督の勧めもあって、明治大学のセレクションを受け、野手として合格したりしたものの、遠藤は野球をやめるつもりだったため、両方とも断った。
ところが、今度は東海大学から誘いがあった。
野球推薦で、工学部建築学科入学の話が舞い込んだのである。
建築士への夢に繋がる進学であれば、もはや断る理由はなかった。

首都大学リーグで2年春にエースとして優勝に導く

1974年の春、遠藤は東海大学工学部に進み、野球部に入部した。
東海大学が所属する首都大学リーグは1964年に創設された新興リーグであり、中でも東海大学は創設当時からダントツの強さを誇っていたが、日体大や明治学院大学の追撃を受けるようになっていた。
東京六大学野球と比べ、実力も知名度もまだ低かった。

遠藤は大学1年の春から「背番号24」でベンチ入りし、首都大学リーグ戦で初登板を果たすと、秋には早くもエース級の活躍を見せ始める。
1年の秋には2完封を含む3勝1敗、防御率0.60。
2年春には7勝1敗、防御率0.85で2年ぶりのリーグ優勝に貢献、2年秋にも4勝1敗で防御率1.98とリーグ屈指の投手となった。

東海大学野球部は、エース遠藤の活躍と、東海大学相模で甲子園にも出場した石井昭男(のちに1977年 ドラフトで中日ドラゴンズから3位指名で入団)が主砲を張り、再び常勝軍団としての地位を取り戻しつつあった。

しかし、東海大学は首都大学リーグの中でだけ、強かったわけではない。
遠藤が大学3年時には全日本大学野球選手権の決勝に進み、大阪商業大学と対戦。
のちにホエールズでチームメートとなる斎藤明雄と投げ合い、2-1で勝利して、2度目の日本一をもたらした。
それでも、遠藤にはプロ野球に進むという夢は微塵も持ち合わせていなかった。
3年の秋には早くも東京ガスへの就職の内定をもらっていた。
建築士になるという夢はいつしかエンジニアに変わっていた。

大学の後輩・原辰徳を目当てにスカウトが集結


ところが、遠藤が大学4年になった1977年、状況は一変する。
東海大学相模で甲子園を沸かせた原辰徳が東海大学に進学し、野球部監督に辰徳の父・貢が就任することになった。
甲子園のスターだった原を目当てにファンが集まり始め、首都大学リーグ戦が行われる川崎球場は東海大学の試合となると賑わいを見せるようになる。
スポーツ紙も首都大学リーグを採り上げるようになり、プロのスカウトたちも球場に足を運ぶようになっていた。

リーグ通算28勝、東海大の5度のリーグ優勝に貢献


遠藤は4年生の春に、リーグ戦で破竹の10連勝という記録をつくった。
結局、遠藤は首都大学リーグ戦で通算28勝5敗で防御率1.11、200奪三振という成績を残し、最高殊勲選手1回、最優秀投手2回、ベストナイン1回を受賞している。
実に8シーズンで5度のリーグ戦優勝を経験した。

明治神宮大会決勝で憧れの江川卓と投げ合う

遠藤が4年生の6月、東海大学は全日本大学野球選手権大会でも2年連続で決勝に進めたが、東都大学リーグを制した駒沢大学に延長10回の末に敗れ、準優勝に終わった。
さらに、秋には第8回明治神宮大会決勝で江川卓を擁する法政大学と相まみえることになった。
江川と原、共に甲子園を沸かせたスター同士の対戦とあって、神宮球場は開放されたエリアはすべて満席となり、テレビ中継もされた。
注目の一戦で東海大学のエースとしてマウンドに上がったのが遠藤である。
遠藤は序盤、江川と互角の投手戦を演じたが、5回に江川にヒットを打たれてから崩れた。
東海大学の1年生の原は、江川から神宮のスタンドに叩き込む1本塁打を含む4打数2安打を放ち、遠藤を援護したが、結局、東海大学は3-5で法政大学に敗れ、法政は明治神宮大会2連覇を果たした。
これが遠藤にとって、大学最後の登板となった。

試合後、遠藤は新聞記者から「プロに行く気はないのか?」と尋ねられ、そこで初めて「プロ野球」を意識したという。
それまで、遠藤の気持ちは1ミリもプロへとは傾かなかった。
だが、ここで初めて、
「在京のセ・リーグの3位指名までならプロでやってもいいかな」という気持ちが芽生えた。

遠藤は、同世代の江川卓に憧れていた。
江川を投手として別格だと思っていた。
遠藤は180㎝、63キロという長身細身で、速球のスピードは江川に及ばない。
江川のように大きく曲がるカーブもない。
遠藤の代名詞となったフォークボールも、身につける前の話だ。

1977年のドラフト会議は、法政大学の江川卓がどこのチームに指名されるのか、この話題で持ち切りとなっていた。
遠藤ら4年生の部員3人は、原貢監督から「寮で待機しておくように」と告げられた。
しかし、東京ガスから内定をもらっていた遠藤にとってはドラフト会議はあくまで他人事であった。

ドラフト会議で「寝耳に水」の指名の裏に別当薫監督の「鶴の一声」

そのドラフト会議で、江川卓はクラウンライターライオンズから1位指名を受けた(ただし、江川は指名を拒否、米国留学を選択したことで、1年後の「空白の一日」事件へとつながっていく)
その後、指名が進み、3巡目で大洋ホエールズが遠藤を指名した。
遠藤にとってホエールズの指名は寝耳に水であった。
ホエールズのスカウトが遠藤に接触してきたことは一度もなかったからだ。

ホエールズは1977年のシーズン、名将・別当薫が、ホエールズのかつての大エースであった秋山登から監督を引き継いだものの、2年連続でセ・リーグ最下位に喘いでいた。
エースの平松政次は9年連続二桁勝利をマークし、チームトップながら10勝どまりで、前年ドラフト1位の斉藤明夫は先発・リリーフとフル回転して新人王を獲得したが、チーム防御率は4.94と投手陣のてこ入れが急務であった。

大洋は1位、2位で即戦力の投手を2人、指名した。
1位は、「西の江川」と謳われた西南学院大学の門田富昭、2位は都市対抗野球で「久慈賞」を受賞した大昭和製紙北海道の加藤英美であった。
3位の指名となった時に、別当は不意に遠藤の名前を挙げた。

これには伏線がある。
首都大学リーグには、遠藤の同学年で大東文化大学に石井邦彦というアンダースローの好投手がおり、各球団のスカウトが群がっていた(石井は日本ハムからドラフト1位指名を受ける)。
リーグ戦で遠藤は石井と投げ合い、完投勝利を挙げたことがあった。
その試合を偶々、別当が観に来ていたのだ。

こうして、遠藤はホエールズからドラフト3位指名を受けることになったのである。

プロ入りか社会人野球かー故郷に帰る汽車の中で大洋スカウトから説得を受ける

しかし、遠藤の気持ちは揺れていた。
社会人かプロか。
社会人野球の関係者から、サラリーマンの生涯年収の話を聞いていた。
プロで短期間で終わるなら、社会人の方がいいと考えていた。

遠藤はドラフトで指名を受けた後、故郷の福島に汽車で帰った。
その道中、汽車のボックス席には遠藤の向かい合わせに大洋のスカウトが座り、懇々と説得した。
遠藤の故郷である西郷村は、いまでこそ東北新幹線の新白河駅からほど近いが、当時は在来線のみでのアクセスしかなかった。
「当時はまだ東北新幹線がなかった。新幹線があったらもっと早く着くので、心変わりしなかったかもしれない」と語った。
東北新幹線が開通するのはそれから5年後の1982年6月である。

実家に戻って家族に相談したところ、母親は社会人野球を勧めてくれた。
しかし、叔父が「ここまで野球でやってきたのだから(プロで)勝負した方がいい」とアドバイスをくれた。遠藤は決断した。

東海大野球部出身3人目のプロ野球選手誕生

こうして、「横浜大洋ホエールズ・遠藤一彦」が誕生した。
背番号は「38」。
東海大学野球部出身者がNPBに入団するのは、1969年に阪神タイガースからドラフト1位指名を受けて入団した上田次朗、1971年にヤクルトアトムズからドラフト5位で指名を受けて入団した渡辺孝博(日立製作所)以来、3人目であった。

しかし、遠藤に浮かれた気持ちはなかった。
「プロに入ってからは、社会人の生涯年棒を稼がなければという思いだった」という。

(つづく)

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