NPB公式戦で「背番号0」投手の投げ合いは?

2024年5月18日、甲子園球場で行われた阪神対ヤクルトでは、NPB一軍公式戦で初めての「珍事」が起きた。

阪神の先発投手がジェレミー・ビーズリー、ヤクルトの先発投手がミゲル・ヤフーレであったが、ともに「背番号99」を着けた投手の投げ合いになったからである。


岡田監督は「99同士、プロ野球史上、最高背番号同士の先発やないか。一生ないで」と終始ご機嫌だった。以下、岡田監督との一問一答。

(練習中、ベンチで)
 「(自ら)プロ野球記録やなあ。もう二度と破られへんやろ?ええ、新聞記者も分かれへんの?」
 (練習終わりで)
 -記録とは?
 「昨日から分かってたやろ」
 (ベンチ入り)
 「分かった?(首を振る報道陣に)ええ…」

阪神・岡田彰布監督は、甲子園球場に集まった報道陣の誰よりも、この「背番号99」投手同士が先発として投げ合うことの「レアさ加減」を十分に理解していたようだ。

しかしながら、岡田監督は「もう二度と破られへんやろ?」と興奮気味に話したが、これから「背番号99」投手の投げ合いは増えるだろう。

近年、NPBの選手の間で「背番号99」はちょっとした人気になっているからである。

それでは、逆に、NPBの公式戦で「背番号0投手」同士の投げ合いはあったのか?

NPBの公式戦で「背番号0投手」同士の投げ合いは?


NPBの在籍選手で、「背番号0」を初めて着用した選手は、広島カープの外野手・長嶋清幸である。

長嶋は1983年シーズンから背番号をそれまでの「66」から「0」に変更した。これがNPBで最初の「背番号0」選手であることはよく知られている。

なお、中日ドラゴンズの投手・西沢道夫が1937年の入団当時、「背番号0」を着用していたという記録があるが、入団当時はまだ「養成選手(いわゆる練習生)」であり、のちに背番号「14」に変更したため、「背番号0」で一軍公式戦には出場していない。

NPB最初の「背番号0」投手は日本ハムの大畑徹、一軍公式戦初勝利は、チームメートだった松浦宏明

では、投手登録の選手で、最初に「背番号0」を着用したのは誰か?

1986年、日本ハムファイターズの投手・大畑徹である。

1982年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズから、九州出身投手としては初となるドラフト1位指名を受け入団したが、プロ入り3年間で17試合に登板し、0勝2敗であった。

大畑は1985年オフ、日本ハムの木田勇、高橋正巳との交換トレードで、チームメートの金沢次男と共に移籍し、同球団初の「背番号0」を着けることになった。

1986年、一軍では7試合に登板したが、0勝2敗に終わり、プロ一軍で未勝利のまま、オフに現役引退した。

従って、NPB一軍公式戦で背番号0の投手が勝利を挙げたのは、大畑の退団と同時に「背番号0」に変更したチームメートの松浦宏明である。

1986年4月22日、阪急西宮球場での阪急ブレーブス対日本ハムファイターズ戦、日本ハムの松浦は8回途中から2番手として登板、逆転を許したものの、9回表に味方が追いつくと、延長10回表に勝ち越して、6-5で勝利しため、延長10回を投げ切った松浦が勝利投手となった。

これがNPB一軍公式戦における「背番号0」投手の初勝利である。


NPB一軍公式戦で「背番号0」投手同士の投げ合いは?

NPBで「投手登録で背番号0」の選手は大畑徹に始まり、オリックス・バファローズの山﨑福也まで11名を数える(2016年の山本昌は引退試合のために復帰して、登録上、背番号「0」を着けた)。

では、NPB一軍公式戦で「背番号0」投手同士の投げ合いはあったのか?

答えは”NO”である。

背番号0投手が同じシーズンで在籍したのは、

1988年 松浦宏明(日本ハム)、坂巻明(ロッテ)
2007年、2008年 金剛弘樹(中日)、佐藤宏志(楽天)、荻野忠寛(ロッテ)
2009年、2010年 金剛弘樹(中日)、荻野忠寛(ロッテ)

これらの組み合わせしかない。 

1998年、日本ハムの松浦宏明は一軍公式戦で36試合に登板、15勝5敗、防御率2.76で、堂々、パ・リーグの最多勝のタイトルを獲得した。
一方、ロッテの坂巻明はプロ入り11年目を迎えていたが一軍公式戦での登板はなく、オフに現役を引退した。

従って、松浦と坂巻は同じパ・リーグに在籍していたが、一軍公式戦の同じ試合で登板することはなかった。

中日の金剛弘樹は2007年と2008年の一軍公式戦でそれぞれ4試合、12試合に登板したが、いずれも登板はセ・リーグのチームとの対戦であり、パ・リーグに在籍する楽天の佐藤宏志、ロッテの荻野忠寛と投げ合うことはなかった。

一方、同じパ・リーグ同士の佐藤宏志荻野忠寛であるが、ロッテの荻野は2007年、新人ながら58試合にすべてリリーフで登板、1勝3敗1セーブ、20ホールド、防御率2.21と好成績を残したものの、一方、楽天の佐藤は2007年と208年、一軍公式戦登板はそれぞれ1試合だけで、日本ハム戦とオリックス戦であったため、佐藤と荻野が同じ試合に登板することはなかった。

2008年オフに楽天の佐藤が現役を引退した後、2009年と2010年は、中日の金剛弘樹とロッテの荻野忠寛が投手として「背番号0」をつけている。
荻野は2009年には一軍公式戦で53試合に登板しているが、2010年は右肘の故障と手術により一軍登板がなく、一方、金剛は2009年は一軍公式戦での登板がなく、2010年は一軍公式戦で2試合の登板があるものの、交流戦の日本ハム戦とオリックス戦であった。

従って、NPBの一軍公式戦において、「背番号0」の投手同士が同じ試合に登板することは2024年シーズン現在、実現していない。

MLB公式戦で「背番号0」投手同士の投げ合いは?

さらにいえば、米国のMLBでは「背番号0」を着けた投手同士の投げ合いは一度だけ実現している。

MLBで背番号「0」を背負った投手で有名なのは、アダム・オッタビーノだろう。
オッタビーノはコロラド・ロッキーズ在籍時の2013年、「背番号0」を着用し、2019年にニューヨーク・ヤンキースに移籍した際も、引き続き、「背番号0」を着けたため、ヤンキースで初めて「背番号0」を着用する選手となった。
その後、2021年にボストン・レッドソックス、2022年からニューヨーク・メッツに在籍しているが、相変わらず、「背番号0」を着けている。

その後、マーカス・ストローマンが、2021年にニューヨーク・メッツでメジャーに復帰した際に、「背番号0」を着用し、2022年にシカゴ・カブスに移籍してからも着用した。

オッタビーノとストローマンが同じナショナル・リーグに在籍したこともあり、「背番号0投手」同士の投げ合いがついに実現した。

2022年7月16日、シカゴのリグレーフィールドで行われたメッツ対カブス戦で、カブス先発のストローマンが5回途中まで投げ、1失点で降板すると、1-1で迎えた9回、メッツ3番手としてオッタビーノが登板、2回を無失点に抑えた。直後の延長11回表にメッツが1点を勝ち越し、そのまま2-1で勝利したため、オッタビーノが勝利投手となった。

MLB史上初、「背番号0投手」が同じ試合に登板したケースとなった。

https://www.baseball-reference.com/boxes/CHN/CHN202207161.shtml

MLBでは「背番号0投手」が2023年に完全試合を達成

2023年からは、ヤンキースの投手、ドミンゴ・ヘルマンが背番号55から0に変更した。
すると、6月28日、敵地・オークランドのコロシアムで行われた、オークランド・アスレチックス戦でMLB史上24人目となる完全試合を達成している
(MLBでは、2012年8月15日に達成したシアトル・マリナーズのフェリックス・ヘルナンデス以来、11年ぶり、ヤンキースでは1999年7月18日に達成したデビッド・コーン以来、24年ぶりチーム史上4人目)。

なお、MLBで初めて背番号「0」を着用したのは、1978年にテキサス・レンジャーズに所属していた外野手のアル・オリバーで、1982年には背番号「0」でアメリカン・リーグの首位打者となった。
そのオフ、NPBでは前述の通り、広島カープの外野手・長嶋清幸が背番号「0」を着用したのである。


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