【追悼】KANさんが目撃した2つの「プロ野球史上初」の快挙

ミュージシャンのKANさん(本名:木村和)が 11月12日に亡くなったと発表された。享年61だった。


KANさんは、1987年にシングル「テレビの中に」と同名のアルバムでデビュー。
1990年にリリースしたシングルの「愛は勝つ」が翌年初めに、テレビのバラエティ番組の挿入歌になると、オリコンのシングルチャートで8週連続1位となり、200万枚を超えるメガヒットとなった。
この年の大晦日の日本レコード大賞「ポップス・ロック部門」の大賞を受賞、NHKの「紅白歌合戦」にも出演した。

その後、他の歌手への楽曲提供も含め、自身でも17枚のアルバムをリリースするなど30年以上に渡って精力的に音楽活動を続けていた。
だが、今年3月に「メッケル憩室癌」と診断されたことを公表し、療養を続けていたものの、11月に入って体調が急変、11月12日に還らぬ人となった。

KANさんはMr. Childrenの桜井和寿、スピッツの草野マサムネ、aiko、ASKA、平井堅など、同業者のミュージシャンが多大なる影響を受けたと公言するほど、「メロディメーカー」としての評価が高かった。

一方、こよなくユーモアを愛し、自身の楽曲でもどこか笑える歌詞やタイトル、ライブでも独特のユーモアのセンス全開の趣向を凝らしたステージがファンを魅了した。
お葬式でも、祭壇に飾られたKANさんの遺影は、かの夏目漱石の写真の有名なポーズを模したものだった。

「愛は勝つ」は1990年代を代表する1曲として現在に至るまでTVコマーシャルで使われたり、他のアーティストにカバーされたりして脈々と受け継がれている。

特に2011年に東日本大震災が起きた後、KANさんが所属するアップフロントエージェンシーおよび関連会社所属タレントがチャリティソングとして「愛は勝つ」をレコーディングし、リリースされた。

「愛は勝つ」はもともと彼の5作目のアルバム「野球選手が夢だった」に収録されていた1曲にすぎなかった。

このアルバムタイトルにもあるようにKANさんと野球には浅からぬ縁がある。
KANさんと野球の縁を紐解いてみよう。

ライオンズファンから王貞治ファン・ジャイアンツファンになったKANさん

KANさんこと木村和さんは1962年、福岡に生を受けた。
Wikipediaによれば、
「1972年、小学4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、1974年、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。」
とあるので、野球少年であったことがうかがえる。
当時、福岡には西鉄ライオンズが存在しており、木村少年もライオンズファンだったようだが、1977年を境に心変わりする。

小さい頃は地元福岡の西鉄ライオンズファンでしたが、77年に王さんが本塁打世界記録を打って、王さんの特集番組を見て以降ばっちり王ファン→巨人ファンになった私です。

パ・リーグは『ロッテ』を除く5球団もの親会社が変わっています。71年、新聞に載った“西鉄身売り”という文字に、決して親に知れてはいけないようなインビな響きを感じ取って兄と二人でニヤニヤしたことを思い出しました。

『西鉄 ライオンズ』はこのあと『太平洋クラブ』→『クラウンライター』と身売りを繰り返して親会社が変わるものの万年最下位で、地元の少年ファンもいいかげんイヤになっていた77年に王さんが世界記録を打ち、私はコロッとジャイアンツファンになり、翌78年、ライオンズは『西武ライオンズ』として福岡を離れて本拠を埼玉に移しました。


KANさんはライオンズのオーナー企業が代わり、チーム名も変わり、弱体化していく過程で、1977年、ジャイアンツの王貞治が通算756号ホームランを記録したことで王貞治ファン、ジャイアンツファンになっていったようだ。

そして、翌1978年春、ジャイアンツの開幕戦を観戦に、福岡からはるばる東京・後楽園球場を訪れている。


どうだ、この写真。1978年4月はじめの後楽園球場。ジャイアンツの開幕戦で王貞治さんのホームランを生で見た日の1枚だ。なぜ、この写真が奥の手かって?目の肥えた方はもうすでにお気付きになりましたね。そう、この写真の私は「ナカタ」にそっくりなのだ。しかも「中村俊輔」もちょっと入ってはいないか。サッカーファンにめちゃくちゃ好感を持たれそうな写真じゃないか。どうだ「きゃぁカワイイ〜!」って言ってくれ。まだ15歳なんだからな。


KANさんは「1978年4月はじめの後楽園球場。ジャイアンツの開幕戦で王貞治さんのホームランを生で見た」と書いているが、一体、どんな試合だったのか。


NPB史上唯一、開幕戦で2年連続満塁ホームランを放った王貞治

ジャイアンツの1978年の開幕戦は、4月1日、エイプリルフールの土曜日、後楽園球場での対阪神タイガース戦という、伝統の一戦であった。
長嶋茂雄率いるジャイアンツはセ・リーグ2連覇を果たし、一方、阪神は前年4位に終わるとオフに吉田義男監督が辞任、「仏のクマさん」こと後藤次男が2度目の指揮官に就任していた。

この開幕戦、巨人の先発は堀内恒夫が4年連続、阪神は江本孟紀が2年連続の開幕投手を務めた。
巨人は2回、5番・柳田真宏がソロホームランを放って先制すると、3回には王貞治が2年連続となる開幕戦で満塁ホームランを放ち、5-0とリードして、江本をKOした。
さらに巨人は4回、ドラフト1位のルーキー・山倉和博が阪神2番手の新井良夫からレフトにプロ初ホームランを放つと、8回に王貞治がダメ押しとなるタイムリー安打を放ち、7-1と圧勝ムードであった。

しかし、試合はこのまますんなり終わらなかった。
阪神は9回、完投勝利目前だった堀内を攻め立て4番・田淵幸一がレフトスタンドへシーズン第1号となるソロホームランを放って反撃ののろしを上げると、堀内に連打を浴びせてマウンドから引きずりおろした。
巨人の2番手には、前年、肋膜炎を患っていた加藤初が登板したが、その変わり端、阪神は代打・大島忠一が2ランホームランを放ち、6-7と1点差に迫った。
しかし、立ち直った加藤初が、1番・中村勝広、2番・池辺巌を連続三振に斬ってとり、ゲームセット。ジャイアンツが辛くも1点差で逃げ切った。

NPB史上初、「新人捕手が開幕戦でホームラン」の快挙を達成した山倉和博

この試合、王貞治の2年連続となる開幕戦でのグランドスラムもあっぱれだが、忘れてはならないのはドラ1ルーキーの捕手・山倉和博の活躍であった。

山倉和博は愛知・東邦高校では「4番・捕手」として2年連続で甲子園に出場し、南海ホークスからドラフト2位指名を受けたが、当時の野村克也選手兼監督から直々に後継者に指名されて、入団を勧誘されるも敢然と断り、一般入試で早稲田大学に合格したという逸話がある。
早稲田大学野球部では1年生から正捕手として活躍し、1学年上の松本匡史(巨人)、2学年下の岡田彰布(阪神)らと主力を形成、4年では主将を務めた。
そして、1977年のドラフト会議でジャイアンツから1位指名されて入団した。
この年のドラフトの目玉は、法政大学野球部のエース、江川卓であり、巨人は江川を指名する方針であったが、当時のドラフト会議はウェーバー方式が採用されていた。
前年パ・リーグ最下位のクラウンライター・ライオンズにドラフト1巡目の最初の指名権があり、江川を指名したため、巨人は山倉を指名したのである
(クラウンからの指名を拒否した江川は翌年1978年オフに、「空白の1日」を経て巨人に入団し、1979年のシーズンから山倉とバッテリーを組むことになる)

ジャイアンツの新人捕手が開幕戦でスタメンに起用されたのは、1947年4月18日の中日戦で武宮敏明がマスクを被って以来、31年ぶりであり、NPB全体で見ても、2リーグ分立後、現在に至るまでたった13人しかいない(うち高卒新人捕手は3人のみ)。
しかも、NPBで新人野手がレギュラーシーズン開幕戦で本塁打を放ったのは1960年の大洋ホエールズの黒木基康が中日ドラゴンズ戦(中日球場)で記録して以来で、実に18年ぶり、8人目の快挙であるばかりか(現在は13人)、新人捕手となると、山倉がNPB史上初の快挙であり、その後、1997年の開幕戦で千葉ロッテマリーンズの清水将海(青山学院大学からドラフト1位で入団)が対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で達成したのみの大記録である。


福岡から上京した15歳のKANさんは、いきなり王貞治の満塁ホームランとなる通算766号を目撃する僥倖に恵まれたわけだが、しかも、NPBで2年連続で開幕戦に満塁ホームランを放ったのは王貞治一人だけである。
さらに、新人捕手・山倉和博の開幕戦ホームランもNPB史上初ということで、一度に2つの「NPB史上初」が達成されたという試合を観戦できたのだから、KANさんは野球ファン・ジャイアンツファンとしてはかなりの強運の持ち主だったといえるだろう。

小久保裕紀の1試合3本塁打も目撃

KANさんのブログによると、その後、2005年8月24日、横浜スタジアムで読売ジャイアンツ対横浜ベイスターズ戦を観戦したという。
1993年に巨人対ヤクルト戦を観戦して以来、12年ぶりだったそうだが、なんと、その試合でもジャイアンツの4番・小久保裕紀の1試合3本塁打も目撃している。

ジャイアンツの選手がレギュラーシーズンで「1試合3本塁打」を放ったのは、王貞治の4回(うち1試合4本塁打1回)を含めこれまで15回、12人が達成しているが、小久保はジャイアンツに在籍した日本人選手としては現時点で最後である。


その後、KANさんは2007年、自身のブログで、当時のプロ野球についてこう語っている。

そう、日本シリーズです。明日からじゃないですか、中日−日ハム戦。ここ数年はすっかりプロ野球を見なくなっちゃったもんですから、特に興味はないっちゃないんですが、でも今年ばかりは巨人とソフトバンクの日本シリーズ見たかったですね。

そんな王監督の身体のことを考えると、もしかすると今年が最後かもしれないじゃないですか。そんな今年ジャイアンツも5年ぶりにリーグ優勝したわけですから。まぁ、今年のホークスは3位だったんでしょうがないんですが。

しかし王監督率いるホークスは、04年・05年とリーグ優勝しておきながら、クライマックスシリーズなるプレーオフで敗れるという、なんとも納得のいかない経験をしているわけで、だいたいあのクライマックスシリーズって制度には、私はどうにも賛成できませんね。

そんな“スポーツ”としてはかなりナンセンスなシステムで日本シリーズ出場権を2年連続で逸したにもかかわらず、決してそのことについて否定的なコメントをしない王監督は真のスポーツマンです。


17年前の時点で、KANさんは王さんの身体のことを気にかけていたが、王さんはホークスの会長としていまだご健在である。
子供の頃に憧れた王貞治さんより自身が先にこの世を去るとは思ってもみなかっただろう。
早すぎる、突然の急逝だった。

KANさんの「野球選手が夢だった」ということが本当だとすると、その夢はかなわなかったが、ミュージシャンとして万人に愛される名曲を残し、他の多くのミュージシャンにも影響を与えたことは素晴らしい人生だったといえよう。

KANさんの楽曲のうち、「愛は勝つ」などの初期の作品群はサブスクでは提供されていないが、1992年にリリースされた初期のベストアルバム「めずらしい人生」は名盤なので、ぜひ何等かの方法で聴いてみていただきたい。

そのベストアルバムのタイトルトラックとなった「めずらしい人生」という歌であるが、KANさんは当時、30歳であったが、いまこの歌の歌詞を読むと、遺言のようにも聞こえる。


すばらしい人生
ぼくは君と出会った
決して徴(しるし)や結果は求めない
おわりある人生 一番大切な事は
愛する人に愛されているかどうかということだ

KANさん、安らかにお眠りください。

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