【2021年】岡本和真、「本塁打王」「打点王」2冠でベストナインを逃す

巨人・岡本和真とヤクルト・村上宗隆、ハイレベルなライバル関係【2021年のNPBを振り返る】

NPBが2021年セ・パ両リーグのMVPとベストナインを発表した。
MVPはセ・リーグは村上宗隆、パ・リーグは山本由伸、ベストナインでも初選出が両リーグ併せて10人を数えるなど、フレッシュな顔ぶれが目立った。
そして、ベストナインの選出に当たって最もハイレベルな争いは、セ・リーグの「三塁手部門」であったと言えるだろう。


2021年セ・リーグのベストナイン三塁手部門は、村上宗隆と岡本和真の一騎打ち



セ・リーグのベストナイン三塁手部門は、ヤクルトのリーグ優勝を牽引した村上宗隆、そして、2年連続で本塁打王と打点王の二冠王に輝いた岡本和真(巨人)の一騎打ちとなった。

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岡本和真は全試合に出場、打率.265、39本塁打、113打点、OPSは.871。
2年連続の本塁打王と打点王のタイトルを手にした。 
一方、村上宗隆も全試合に四番打者で先発出場し、打率.278、岡本に並ぶ39本塁打で初の本塁打王、打点も岡本に1点差に迫る112打点、OPS(=出塁率+長打率)では岡本を大きく上回る.974を記録した。


その結果、セ・リーグのベストナイン三塁手部門は村上宗隆が選出された。
セ・リーグの有効投票数306票のうち、村上宗隆が249票を集めたのに対し、岡本和真は59票にとどまった。

村上宗隆はリーグMVPの投票でも、同じチームの先輩の山田哲人を抑えて、セ・リーグ歴代最年少の21歳で選出された。
21歳の村上宗隆はNPB史上最年少の通算100号本塁打到達、東京五輪2020では最年少で侍ジャパン選出、そして、最年少でのシーズン100打点到達と話題に事欠かなかったが、やはり、なんといっても、リーグ優勝への貢献が評価された結果であろう。

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MVPもベストナインも、記者による投票で決まる賞だが、リーグ優勝チームの選手に票が集まる傾向にある。
特にMVPは「最優秀選手」であり、リーグ優勝に貢献した選手を選出する賞ではないのだが、投票結果を見ると、優勝チームの選手に得票が多い。
今季の巨人は序盤から阪神と優勝争いするも、シーズン終盤に失速し、3位に終わったが、もし巨人がリーグ優勝していれば、岡本和真と村上宗隆の打撃成績がそれぞれ同じでも、投票結果は二人の間で逆になっていた可能性が高い。

過去、2年連続の「本塁打王と打点王」の二冠王は?



岡本和真は高卒4年目で迎えた2018年、打撃開眼で4番を打ち、全試合に出場を果たすと、「打率3割・30本塁打・100打点」にNPB史上最年少で到達した。2019年には2年連続のシーズン30本塁打到達、そして2020年、ついにセ・リーグの本塁打王と打点王の二冠に輝いた。
そして2021年、再び本塁打王と打点王の二冠を獲得した。
本塁打王と打点王の同時獲得は、今季の岡本がNPB史上75度目(三冠王を含む)の快挙であるが、しかし、この偉業を「2年連続」で達成したとなると意外にも少ない。

巨人の野手で、2年連続で打撃主要部門で二冠を獲ったのは、王貞治以来、岡本が2人目の快挙である。
王は1964年から1967年の4年連続、1971年から1974年の4年連続(うち、1973年、1974年は三冠王)、1976年、1977年の2年連続と、計3度の「複数年連続での本塁打王と打点王の二冠」をマークしている。

セ・リーグでみても、2年連続の本塁打王・打点王の二冠は、1980年・1981年の山本浩二(広島)、1985年・1986年にランディ・バース(阪神)が三冠王を達成して以来、岡本和真が史上4人目である。

パ・リーグでも野村克也(南海ホークス、1962年~1967年の6年連続、うち1965年は三冠王)、落合博満(ロッテオリオンズ、1985年・1986年に三冠王)、オレステス・デストラーデ(西武、1990年・1991年)の3人しかいない。

すなわち、岡本和真の2年連続の「リーグ本塁打王と打点王」同時獲得は、NPB史上7人目、9度目の偉業ということになる。

なお、打率を含めた打撃主要三部門での二冠王となると、中西太(西鉄)が1955年に首位打者と本塁打王の二冠王、翌1956年に本塁打王と打点王の二冠王を獲得している。

「本塁打王と打点王」の二冠でベストナイン選出漏れは?


しかし、岡本和真が今季、これだけハイレベルな偉業を達成したにもかかわらず、ベストナインの選出からは漏れてしまった。
NPBで「ベストナイン」が制定されたのは、一リーグ時代の1940年からであるが、本塁打王、打点王の打撃二冠王を獲得して、リーグのベストナインの選出から漏れたのは、岡本和真が5人目である。

過去の4人のケースを見てみよう。

①1953年 セ 一塁手 藤村富美男(大阪) VS 川上哲治(巨人)



1953年、「ミスタータイガース」こと藤村富美男は37歳を迎え、長年守り慣れた三塁手から一塁手に転向し、130試合全試合に出場、打率.294、27本塁打、98打点で自身3度目の本塁打王と、4度目となる打点王の打撃二冠王を手にした。「物干し竿バット」を振り回すのは健在であった。

一方、「赤バット」が代名詞、「打撃の神様」こと川上哲治はこの年、33歳を迎え、巨人の不動の一塁手として、打撃はますます円熟味を増し、4月にNPB史上初の1500安打に到達すると、121試合の出場で162安打はリーグトップ、打率.347で自身4度目となる首位打者を獲得した。
本塁打は7本にとどまったが、77打点はリーグ4位だった。

いまなら、藤村富美男がベストナインに選ばれても不思議はないが、打率で5分近い差をつけた川上哲治に軍配が上がった。

なお、この年、中日の一塁手・西沢道夫も打率.325(リーグ3位)、22本塁打(同2位タイ)、81打点(同2位)を挙げており、OPSで見れば西沢がリーグトップという、ハイレベルな争いであった。

②1960年 セ 一塁手 藤本勝巳(大阪)VS 近藤和彦(大洋)



1959年、大阪タイガースの藤本勝巳は高卒4年目で24本塁打、81打点と頭角を現し、セ・リーグのベストナイン一塁手部門で「打撃の神様」こと川上哲治(巨人)を抑え、初受賞した。
翌1960年、藤本は高卒5年目にして22本塁打、98打点で本塁打王と打点王を獲得、自身初の打撃タイトルを一気に、二冠も手中にした。
藤本はこの年から外野手兼任となり、出場した119試合のうち、一塁手での出場は83試合であった(外野手として51試合)。

一方、大洋ホエールズの近藤和彦は大卒3年目で打率.316をマーク、首位打者の長嶋茂雄(巨人)に次いでリーグ2位、7本塁打、55打点、20盗塁であった。
近藤も藤本同様、外野手兼任であったが一塁手としての出場は118試合あった。
結局、この年のセ・リーグのベストナイン一塁手部門は、打撃二冠王の藤本を差し置いて、近藤が初めて受賞した。

藤本は翌1961年、ベストナイン一塁手部門で2度目の受賞を果たすが、その後は成績が急降下した。
一方、近藤は翌1961年から外野手に本格的に転向し、ベストナインの外野手部門で4年連続で選出されるなど、中心選手に成長した。

③1981年 パ・DH トニー・ソレイタ(日本ハム)VS 門田博光(南海)

1981年、日本ハムが19年ぶり2度目のリーグ優勝を遂げたが、四番打者としてそれを牽引したのが、「カリブの怪人」ことトニー・ソレイタである。
米国領サモア出身初のメジャーリーガーとなったソレイタはMLBでは通算50本塁打の実績を携え、日本ハム入りした。
来日1年目の1980年、4月にいきなり「4打数連続本塁打」で1964年の王貞治以来、NPB2人目となる「1試合4本塁打」を記録すると、9月にはNPB史上8人目、外国人選手初となる「4打席連続本塁打」という離れ業をやってのけ、45本塁打(リーグ2位)、95打点(リーグ5位)という成績を収めた。
翌1981年にはほぼDH専任で、打率.300、44本塁打、108打点で自身初の本塁打王と打点王の「打撃二冠王」となった。
外国人助っ人選手の中で、来日2年で99本塁打は2002年にアレックス・カブレラ(西武)に破られるまで最多であった。

一方、南海の主砲、門田博光も全130試合にDHで出場し、44本塁打を放ってソレイタと共に、自身初の本塁打王となり、打率.313(リーグ5位)、105打点(同2位)という成績を残した。
結局、ベストナインのDH部門は、門田が選出された(自身4度目、過去3度は外野手として受賞)。

この年、ソレイタはチームの勝利を決める決勝打をリーグ最多の17本も放ち「最多勝利打点賞」としてタイトル表彰され、日本ハムのリーグ優勝に大きく貢献したことから、シーズンMVPはソレイタになってもおかしなくなかった。
しかしながら、パ・リーグMVPの記者投票の結果は蓋を開けてみると、トップはリリーフエースの江夏豊で、2位は同僚の柏原純一、ソレイタは3位に終わった。
江夏はともかく、ソレイタと同じ野手の柏原は打率.310、16本塁打、81打点と、打撃三部門でソレイタを上回ったのは打率だけで、一見、不可解な投票結果だが、これは、リーグMVPの記者投票の前に、ソレイタの「上司」である日本ハムの大沢啓二監督が「ソレイタに投票しないでくれ」と、投票権のある記者たちに依頼したことが原因ではないかと言われている。
大沢監督の意図は、「MVPの授賞式当日にソレイタは帰国していて日本にいないのだから、(授賞式に出席できる)日本人選手に投票してほしい」ということだったようだが、いまなら外国人に対する差別として問題視される発言であっただろう
(もっとも大沢は1982年にソレイタがロッテの落合博満と本塁打王を争っていたシーズン終盤、ロッテからソレイタが四球攻めに遭った時には抗議している。結果、落合がソレイタに2本差で本塁打王となり自身最初の三冠王を手にした)。

ソレイタは翌1982年にNPB通算100号に到達したが、303試合での到達は1990年にラルフ・ブライアント(近鉄)に破られるまでNPB史上最速であった(現在もカブレラに次ぎNPB歴代3位)。
1983年まで4年連続でシーズン30本塁打以上をマークし、NPB通算155本塁打を放ったが、1983年オフに退団、地元サモアに帰って政府の教育局体育部で働いていたが、1990年、仕事上での土地取引のトラブルに巻き込まれ、路上で射殺されたという。43歳の若さであった。

なお、江夏は1979年の広島時代のセ・リーグMVP受賞に続き、この年も日本ハムの一員としてパ・リーグMVPを受賞したため、NPB史上初のセ・パ両リーグでのMVP受賞となったが(その後、小笠原道広が2006年に日本ハムで、2007年に巨人でMVPを受賞)、いずれもベストナインの投手部門では選出されていない。
「リーグMVPを受賞しながら、ベストナインに選出されなかった選手」は、NPB史上14人おり(後述)、そのうちの13人は投手だが、2度もあるのは江夏が唯一のケースである。

④2010年 セ・外野手 アレックス・ラミレス(巨人)VS 和田一浩(中日)



2010年、アレックス・ラミレス(巨人)が打率.304、49本塁打、129打点でセ・リーグの本塁打王と打点王の二冠王となった。
だが、この年、セ・リーグの外野手の打撃成績はハイレベルで、ベストナインの投票結果は、1位が打率.358で首位打者の青木宣親(ヤクルト)、2位が、216安打を放ってイチローの持つNPBシーズン最多安打を更新したマット・マートン(阪神)、3位が和田一浩(中日/打率.339、37本塁打、93打点)となった。
ラミレスは二冠王にもかかわらず、4位に終わった。
3位の和田が170票、4位のラミレスが158票、12票差という僅差であった。

巨人は前半、首位を走っていたが、8月に阪神が首位を奪うと、9月には落合監督率いる中日が抜け出し、そのまま4年ぶりのリーグ優勝を収めた。
シーズンMVPにはリーグ優勝チームである中日の和田一浩が選出された。
ひょっとすると、ベストナインの投票では、和田は選出から漏れていた可能性もあった。
「リーグMVPを受賞してベストナイン選出から漏れた選手」は前述の通り、NPB史上14人いるが、そのうち13人は投手であり、もし和田がそうなっていれば、野手としては1948年の山本一人(旧姓・鶴岡一人、南海ホークス)以来、2人目となっていた。

2年連続の「本塁打王と打点王」がベストナインを逃すのは史上初



過去の4人のケースを見ても、2年連続の打撃二冠王がベストナインを逃したのは、岡本和真がNPB史上初である。

もちろん、ベストナインの選出はあくまで単年での成績の評価を基にしているため、それ自体にそこまでの意味はないが、それだけ村上宗隆と岡本和真のライバル関係がハイレベルであることを物語っているといえるだろう。

村上宗隆と岡本和真、来季以降もこの二人のハイレベルな打撃が個人のライバル関係をヒートアップさせ、そして両チームが優勝を争う上でのカギを握るに違いない。


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