西武ライオンズ出身の2000安打達成者

埼玉西武ライオンズの外野手、栗山巧(38歳)が、9月4日の楽天戦(楽天生命パーク)で、NPB史上54人目となる通算2000安打を達成した。

これまで、NPB通算2000安打を達成したのは栗山を含め54人いるが(日米通算2000安打達成者を除く)、栗山は年齢では29番目、試合数では40番目、そして、ライオンズの選手としては、1983年の山崎裕之(通算2081安打)以来、38年ぶり4人目となり、しかも、ライオンズ生え抜き選手としての達成は、西鉄ライオンズを始め前身を含めても初の偉業である。

ライオンズの選手在籍時の通算安打数は以下の通りである。

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〇ライオンズでキャリアをスタートさせて通算2000安打を達成した選手


ライオンズでキャリアをスタートさせて、NPB通算2000安打に到達したのは、秋山幸二、清原和博、和田一浩、松井稼頭央に次いで、栗山巧が5人目である。だが、最初の4人はいずれも他球団への移籍後に達成している。

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秋山幸二(ダイエーで達成)

秋山幸二は熊本・八代高校からドラフト外でライオンズに入団、1981年からプロ生活をスタートさせた。プロ3年目から3年連続シーズン40本塁打を放ち、走攻守、三拍子そろった外野手として清原和博らとクリーンアップを形成、西武の黄金時代を築いた。ホームランを打った後にバック転でホームインするなど、高い身体能力を誇り、当時「メジャーリーグにもっとも近い男」と言われた。
ライオンズでは1224安打・328本塁打を放ち、9年連続シーズン30本塁打をマークしていたが、1994年にダイエーホークスに移籍、広い本拠地の福岡ドームでは中距離打者へと変貌して、2000年に38歳4か月で通算2000安打に到達。ホークスでは9年間で933安打・109本塁打を放ち、自身通算2157安打(NPB史上24位)・437本塁打(同15位)で現役引退した。

清原和博(巨人で達成)

清原和博は、PL学園時代は甲子園のスターとして活躍すると、1985年のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受け入団。プロ1年目から4番に座り、高卒新人最多となる31本塁打を放つなど、文句なしの新人王に輝き、その後、王者・西武の4番打者として君臨した。近鉄・野茂英雄、ロッテ・伊良部秀輝らとの真っ向勝負はパ・リーグの華だった。
ライオンズ在籍11年間で6度のシーズン30本塁打以上、1353安打(球団史上9位)・329本塁打(同2位)・915打点(同2位)を記録した後、FAで1997年から読売ジャイアンツに移籍した。2004年には巨人のユニフォームで通算2000安打に到達。巨人では9年間で720安打・185本塁打・576打点を記録、その後、オリックスに移籍して、2008年に22年の現役生活を終えた。
打撃3部門のタイトルとは無縁だったが、2122安打(24位)、525本塁打(5位)、1530打点(6位)は、球史に残るスラッガーとして異論はないだろう。

和田一浩(中日で達成)

和田一浩は県立岐阜商、東北福祉大、神戸製鋼を経て、1996年のドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け、捕手として入団した。
パワフルな打撃を買われ、捕手からコンバート、30歳を超えてから外野手のレギュラーを掴んだ。3年連続シーズン30本塁打、2005年には首位打者・最多安打のタイトルを獲得。ライオンズでは1032安打・177本塁打を放ち、FAで2008年から中日に移籍すると、2010年にはシーズンMVP、2014年には41歳9ヶ月でNPB史上最年長となる300本塁打達成、しかも大卒・社会人経験者としては史上初の快挙を達成し、2015年には42歳11か月、NPB史上最年長で通算2000安打に到達した。
さらに、NPB史上3人目となる、「セ・パ両リーグで1000安打」にも到達した(大杉勝男/セ・1057安打=ヤクルト、パ・1171安打=日本ハム、落合博満/セ・1275安打=中日、巨人、パ・1096安打=ロッテ、日本ハム)。
2チームで1000安打以上を記録したのも、NPBで4人目である(他に大杉勝男、金本知憲、谷繫元信)。
その年、和田は2050安打・319本塁打・1081安打、打率.303という記録を残して19年の現役生活を終えた。
和田の年代別安打数は、20代(5年)で149安打、30代(10年)で1470安打、40代(4年)で381安打となっており、「大器晩成」の極めて特異なキャリアとなった。

松井稼頭央(楽天で達成)

松井稼頭央はPL学園から1993年のドラフトで西武ライオンズから3位指名を受け、入団。プロ3年目から遊撃手のレギュラーを獲得、8年連続シーズン全試合出場、3年連続盗塁王、7年連続シーズン打率3割、シーズンMVP(1998年)、スイッチヒッター初のトリプルスリー(1998年)、など数々の快挙を達成し、ライオンズのみならず、パ・リーグを代表するスターとなった。
ライオンズで1433安打(球団歴代6位)・150本塁打(同17位)を放った後、2004年からMLB/ニューヨーク・メッツに移籍した。2009年にヒューストン・アストロズで日米通算2000安打に到達、コロラド・ロッキーズでは球団創設初のワールドシリーズ進出にも貢献し、MLBでは3チームで計615安打を放った。2011年からNPBに復帰し、楽天に入団すると、2015年にNPB通算2000安打に到達。2018年に古巣・西武に復帰して、24年間の現役生活を終えた。最終的には日米通算2705安打(西武1439安打、MLB615安打、楽天651安打)を積み重ねた。

ライオンズの選手として通算2000安打到達を迎えたのは、江藤慎一、土井正博、山崎裕之に次いで、栗山巧が4人目である。

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〇ライオンズで通算2000安打を達成した選手


江藤慎一(中日→ロッテ→大洋→太平洋クラブで達成)


ライオンズ在籍の選手として初めてNPB通算2000安打に到達したのは「闘将」こと江藤慎一である。

江藤は熊本商から日鉄二瀬を経て、1959年に中日に捕手として入団した。
一塁手、その後、外野手に転向すると、中日→ロッテ→大洋→太平洋クラブ→ロッテと渡り歩いた。ロッテに移籍した1971年には当時、NPB史上初となる「両リーグで首位打者」を獲得すると(その後、内川聖一が横浜とソフトバンクで達成)、1975年には太平洋クラブライオンズに選手兼監督として移籍、当時、NPB史上9人目となる通算2000安打の快挙を達成した。


江藤は太平洋に移籍した時点で3チームで1939安打を放っており、太平洋に在籍したのは1975年の1シーズンだけで69安打しか放っていない。その後、ロッテに再び移籍して、通算2057安打(NPB史上41位)・367本塁打(同26位)で引退した。オールスターには3チームで計11回、選出されたが、ベストナイン6回はすべて中日での受賞で、両リーグでの受賞は逃した。

土井正博(近鉄→太平洋・クラウンで達成)


土井正博は近鉄スカウトを務めていた根本陸夫の目にとまり、大阪・大鉄高校を中退して、1961年に近鉄バファローズに入団。別当薫・新監督の下、オープン戦で4番に起用され、「18歳の4番打者」と騒がれた。
プロ2年目に全試合出場を果たし、3年目にリーグ最多安打、そして6年連続シーズン20本塁打以上を記録、当時、球団歴代最多となる307本塁打(その後、2位)、1714安打(球団歴代3位)・960打点(球団最多)を記録した。
1975年に太平洋に移籍すると、この年から導入された指名打者制度を活かし、プロ14年目で自身初の本塁打王を獲得。クラウンライター時代の1977年にロッテ・村田兆治から通算2000安打を放った。1978年には恩人である根本陸夫がクラウンの監督に就任、パ・リーグ最多タイとなる6試合連続本塁打、1980年には当時、NPB史上4人目となる450本塁打に到達した。
ライオンズでは7年間で、738安打・158本塁打・440打点の記録を残し、1981年オフに通算2452安打(NPB歴代10位)・465本塁打(同12位)・1400打点(同12位)で引退した。
本塁打のほぼ全てがレフト側という、極端なプルヒッターだが、三振が少ない稀有な長距離打者であった。
ベストナインは外野手で2度、指名打者で1度、オールスターゲームにも15回、選出されているが、リーグ優勝・日本シリーズにだけは縁がなかった。

山崎裕之(ロッテ→西武で達成)

山崎裕之は埼玉・上尾高校から1965年、ロッテの前身である東京オリオンズに入団して、3年目から遊撃手のレギュラーに定着。5年目から二塁手に転向してから打撃が安定し、1971年にはサイクル安打を記録するなど、右の中距離打者として活躍した。オリオンズで1411安打(球団歴代9位)・182本塁打(同9位)を放った後、1979年に地元・埼玉に移転してきた西武ライオンズに移籍し、1983年に通算2000安打に達した。ライオンズでは6年間で670安打を放って、日本一2連覇に貢献、1984年オフに現役を引退した。
通算2081安打、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞3回、オールスターゲームにも11度、選出されている。

なお、NPB各12球団で最初と最新のNPB通算2000安打達成者は以下の通りである。

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