【2020年4月6日】横浜DeNAベイスターズ、球団通算8000号本塁打への道のりを振り返る

ベイスターズ球団通算8000号は新人の牧秀悟

横浜DeNAベイスターズの2020年ドラフト2位指名の新人・牧秀悟(中央大学)が、4月6日の中日戦(バンテリンドーム)、9回の打席で、鈴木博志から今季2号ソロ本塁打を放った。これが、記念すべき球団通算8000号本塁打となった(試合はDeNAが7-3で勝利したが、敵地でのヒーローインタビューに呼ばれたのは、球団通算7999号となる中押し満塁ホームランを打った神里和毅だった)。

前身の大洋ホエールズは1950年に創設され、その後、その本拠地を山口の下関から大阪へ、そして1954年には神奈川の川崎へ移転し、その後、1978年に川崎から横浜に移転した。
ベイスターズになってからはさらに横浜の市民球団としての色が濃くなり、そしていまや神奈川の球団と言ってもよい。
だが、ホエールズ・ベイスターズの選手が積み重ねた本塁打の記録には、二人の「埼玉県人」が大きく関わっていた。


ホエールズの球団第1号本塁打を打ったのは? 在籍たった1年の「持っている男」長持栄吉


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大洋ホエールズの球団第1号ホームランを打ったのは、球団初期メンバーの一人、長持栄吉という当時32歳の外野手である。
NPBが二リーグに分裂した1950年、DeNAの前身球団、大洋ホエールズが、セ・リーグに加盟した。
大洋は1950年3月10日、地元・下関市営球場で球団最初の試合である対国鉄スワローズ戦に臨み、2-0で勝利した。大洋ホエールズの球団創設初試合の先発投手かつ球団初勝利投手を完封で飾ったのは右腕の今西錬太郎(前阪急ブレーブス)である(今西さんは2019年、DeNAがクライマックスシリーズファーストステージで初めて本拠地開催となった第1戦の始球式に招かれ、1950年当時の背番号「18」の白いユニフォームを身にまとい、95歳で横浜スタジアムのマウンドに立って元気な姿を見せた)。
その4日後、開幕3試合目となった3月14日、北九州市立桃園球場で行われた対松竹ロビンス戦、「6番・センター」で先発出場していた長持栄吉が、8回の打席で特大の2ランホームランを放った。これが記念すべき、大洋球団初の本塁打となった。
しかも、その相手は松竹の右腕エース、真田重蔵であった。真田はこの試合、通算100勝目を懸けて先発マウンドに上がり、7回まで2失点と好投しており、8回に長持にホームランを打たれて1点差に迫られたが、松竹は5-4と逃げ切って、真田は26歳の若さで通算100勝目を挙げた(真田はこの年、セントラル・リーグ最多の39勝を挙げ、松竹をセ・リーグ初の優勝に導くと、自身も、セ・リーグ初の最多勝投手と初代・沢村賞を受賞した)

長持栄吉は1918年生まれの静岡県出身、右投げ右打ちの外野手で、県立島田商業高校卒業後、実業団(東海製紙、東洋紡富田)の野球部を経て、1950年、28歳の時、球団創設間もないセネタース(現在の北海道日本ハムファイターズ)に入団した。そして、背番号「1」を与えられた。
(1936年から1940年までに存在した「東京セネタース」とは経営母体が異なるが、初代監督の横沢三郎らがセネタースの再興に携わっている)
その後、長持の在籍4年の間に、「セネタース(1946年)→東急フライヤーズ(1947年)→急映フライヤーズ(1948年)→東急フライヤーズ(1949年)」とチーム名も経営母体も毎年のように目まぐるしく変わった。
長持は急映フライヤーズ在籍時代の1948年3月、天皇陛下がたまたまオープン戦を観覧され、長持が試合中に好プレーしたことで試合後に、サインを求められたという。
そして、長持は1949年のオフに新設された大洋ホエールズに引き抜かれて移籍した。長持はそれまで、プロ4年で11本塁打と、決して長距離打者とはいえず、俊足巧打のアベレージヒッターであった。長持の記念すべき一発が飛び出した桃園球場は、この日がプロ野球公式戦のこけら落としとなった。桃園球場は、両翼100メートル、中堅125メートルという当時としてはかなり広い球場だったにもかかわらず、長持は名投手・真田からフェンスオーバーを放ったのである。
結局、長持はこの年、背番号「9」と同じだけ、9本塁打を放ったが、翌年から広島カープに移籍した。
大洋球団にたった1年しか在籍していない男が、その後、70年も続く大洋球団の最初のホームランを放ったのである。


長持は広島に移籍し、今度は背番号「8」を背負った(その後、「ミスター赤ヘル」こと山本浩二が背負い、カープの永久欠番となる)。移籍当初は外野のレギュラーを張っていたが、移籍6年目の1956年には、すでに代打の切り札的な存在となっていた。5月31日、古巣の大洋戦(川崎)、0-0で迎えた4回一死満塁の場面で、長持は代打で登場すると、初球を叩いて満塁本塁打を打った。NPB史上4人目、広島カープにとって球団初の代打満塁本塁打で、かつ38歳での一発は、長らく最年長記録だった。広島先発のエース、長谷川良平はこの4点を守り切って完封し、4-0で勝利した。そして、この劇的な一発が長持にとって、現役最後のホームラン(43本目)となった。
天皇陛下にサインを求められ、大洋球団初のホームラン、広島球団初の代打満塁ホームランを打った男、長持はいわゆる「持っている男」であった。

3球団を渡り歩いた長持は1196試合に出場して942安打、43本塁打、446打点、打率.253という成績を残し、1957年のオフに39歳で現役引退した。
だが、「持っている男」長持の野球人生はこれで終わらなかった。
長持は、引退後に埼玉県大宮市の教育委員会に勤務となり、市内の学生たちに野球の指導に当たっていたところ、県立大宮工業の野球部のコーチとなった。すると、大宮工業は1968年の春のセンバツに初出場し、埼玉県勢としては初優勝の快挙を成し遂げた。
そして、私学の浦和学院の監督になると、春3回、夏4回の甲子園出場を果たし、1986年の夏はベスト4。総監督になった後も、1992年春のセンバツでもベスト4になるなど、浦和学院を埼玉県下トップの甲子園常連校に育てあげた後、2000年に82歳で亡くなった。長持の死後も、浦和学院は甲子園に出場を重ねるものの、春夏ともに準決勝の壁をなかなか破れずにいたが、ついに2013年の春のセンバツで、埼玉県勢としては大宮工業以来となる45年ぶりのセンバツ優勝校となった。
長持の幸運は、長持の死後も、「長持ち」していたのである。

ホエールズ、ベイスターズで球団最多本塁打記録を持つのは?

では、ベイスターズの前身球団を含めて達成した球団通算8000本塁打のうち、いちばん貢献しているのは誰だろうか?

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球団トップは松原誠の330本塁打


答えは、松原誠である。
松原は生え抜きとして通算2000安打を達成し、「右の中距離打者の一塁手」という印象が強いが、実は1962年に埼玉・飯能高校から入団した時は、強肩の捕手だった。新人から一軍でも捕手としての出場機会に恵まれたが、捕手としての限界を感じ、三塁手・一塁手に転向した。
プロ3年目の1964年、5月6日の阪神戦(甲子園)で3回表に、村山実から左中間へソロ本塁打を打って、ようやくプロ初本塁打を記録した。
そして、入団5年目の1966年から毎年、シーズン二桁本塁打に届くようになり、三番、四番という主軸を打つようになった。

松原は順調に本塁打を重ね、入団15年目の1976年、4月22日の対広島戦(川崎)の9回裏、シーズン第1号、通算224号本塁打を放つと、桑田武が持つ球団記録となる通算223本塁打を抜き、球団歴代トップに立った。さらに、6月1日・2日の阪神戦(川崎)で、NPBタイ記録となる2試合にまたがった4打数連続本塁打をマークした。この年、自己最多の33本塁打を打った。
松原がチーム屈指のスラッガーとなった1977年、若いライバルが現れる。高卒入団5年目の田代富雄である。松原と田代は競い合うように、本塁打と打点を量産した。田代は打率.302、88打点、そして、35本塁打を記録した。松原は田代を追い上げると、最終的に34本塁打と1本差に迫り、110打点をマークした。この年、ジョン・シピンも打率.310、22本塁打、87打点をマークしたが、チームは最下位に沈んだ。

大洋ホエールズが本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移転した1978年に、松原はシーズン最初のホームランでNPB史上11人目となる300本塁打に到達した。だが、松原は新しい本拠地・横浜スタジアムが川崎球場より広くなり、外野フェンスが高くなったことを理由に、本塁打を狙うことをやめ、意識してアベレージヒッターに転向した。松原の本塁打数は、前年の34本塁打から16本塁打に半減したが、34歳にして、自己最高の打率.328、当時のセ・リーグ記録となる45二塁打を記録して、モデルチェンジに成功した。
松原は通算2000安打まであと8本と迫って迎えた1980年、開幕から打撃不振に陥っていたが、4月23日の阪神戦(横浜)に「5番・ファースト」で先発すると、1回裏にシーズン1号となるレフトオーバーの3ラン本塁打を打ち、通算320本目の本塁打で史上12人目の通算2000安打を決めている。
松原はバッターとして最高の栄誉を手にしたものの、チームで優勝の美酒を味わえないまま、心残りながらこのシーズン限りで引退するつもりであった。だが、巨人・藤田元司監督の誘いで、翌年1981年に巨人入りし、自身初のリーグ優勝・日本シリーズを経験した。日本一は逃したものの、そのシーズンオフに37歳で現役引退した。
松原は15年連続でシーズン二桁本塁打、シーズン20本塁打以上は9度、自己最多の34本塁打を含め、30本塁打以上も3度、マークしており、ホエールズ・ベイスターズ史上、最高のホームランバッターとして、その記録は当分、破られそうにない。

球団歴代通算本塁打2位は田代富雄、278本塁打

球団歴代通算本塁打2位の記録を持つのは、前述の田代富雄である。

田代富雄は神奈川・藤沢商業から1972年に大洋ホエールズからドラフト3位指名を受けて入団した。右の大砲候補として長打力はあるものの、入団3年早々で移籍要員となっていた。だが、ヘッドコーチ格のクリート・ボイヤーがその将来性を見込み、球団に田代の放出を翻意させた。
ボイヤーの預言通り、田代は入団5年目の1977年、開幕から5試合連続本塁打を放ち、「5番・サード」に定着すると、オールスターにも巨人・長嶋監督の推薦で出場した。その後も4番に座る松原誠と争うように本塁打を量産したが、9月23日に34号、35号本塁打を打った後、16試合を残していたが、そこからホームランが出なくなり、結局、16試合ノーアーチでシーズンを終えた。球団史上初の40本塁打到達はならなかったが、前年に松原誠が更新したチーム日本人歴代最多本塁打の34本をたった1年で塗り替えた。
1979年、ヤクルトとの開幕戦では先発の松岡弘から3打席連続ホームランを放った。故障の影響で途中交代が多くなり、19本塁打に終わったが、チーム2位浮上に貢献した。
1980年には6月から4番打者に座るようになり、自己最多の36号本塁打を放ち、球団シーズン最多記録に並んだ。
そして、田代は松原誠がチームを去った1981年には、日本人の中心打者として不動の4番となった。松原誠が残した球団記録の通算330本塁打を抜くのも時間の問題と思われていたが、1986年に試合中、一塁手の守備で左手首を骨折したことで、打撃に影響が現れ、打棒が元に戻らなくなった。
1991年10月10日、地元・横浜スタジアムで行われた阪神戦が、田代富雄の引退試合となった。3回二死満塁で迎えた第2打席で、阪神先発の葛西稔から放った満塁ホームランが自身、通算278本目のアーチとなった。NPBで現役最終打席に満塁本塁打を放ったのは、長い歴史でも田代富雄、たった一人しかいない。
田代も、松原と同様、37歳で現役引退した。その後、ベイスターズや、楽天、巨人で打撃コーチとして、何人ものスラッガーを育成しているのは周知の事実である。

球団歴代3位は村田修一、251本塁打

球団歴代3位は、その田代富雄が育てた村田修一である。
村田は福岡県出身で、東福岡高校では甲子園に投手として出場、同級生・松坂大輔(横浜高校)らと投げ合い、大いに沸かせた。日本大学では内野手に転向し、東都大学リーグで活躍すると、2002年のドラフトの自由獲得枠で横浜ベイスターズに入団した「松坂世代」の一人である。
大卒1年目の2003年からいきなり25本塁打を放ち、頭角を現すと、入団5年目の2007年には師匠の田代に並ぶシーズン36本塁打で、堂々、セ・リーグの本塁打王を手中に収めた。
松原も田代も、打撃3部門のタイトルには終生、縁がなかったが、村田は球団の日本人選手としては1959年の桑田武(球団在籍時に通算223本塁打)が大卒新人ながらシーズン31本塁打(NPB記録)で本塁打王を獲得して以来、48年ぶりの快挙となった。
村田は翌年2008年には前年を上回るシーズン46本塁打と、3学年上の多村仁が2004年につくった球団記録の40本塁打を追い抜き、2年連続でセ・リーグの本塁打王のタイトルを獲得した。2006年から3年連続となるシーズン100打点以上も記録した。松原も村田もシーズン100打点以上は一度だけで、複数年のシーズン100打点以上も外国人選手のカルロス・ポンセ(1986年、1988年の2度)以外、誰もなしえなかった快挙である。
村田はその後、シーズン本塁打数は20本台に減ったものの、入団9年間で通算251本塁打を放った。2011年のオフにFA権を行使して、巨人に移籍したため、師匠・田代の278本塁打には届かず、チームを離れた。

村田は、ホエールズ一筋だった師匠の田代よりも在籍年数が少ないため、在籍時の打撃成績で師匠よりも優っているのは、死球の数だけだが、率で測る指標については打率、出塁率、長打率、OPS、本塁打率は軒並み上回っている(だが、打率については、村田が田代を.00002差、2忽差で上回るという僅差である)。
村田は巨人で念願の優勝を幾度も味わったが、皮肉にも田代が育成したという意味では弟弟子にあたる岡本和真が台頭し、出番を失うことになった。2017年オフに巨人を退団後、2018年の1シーズンだけ独立リーグでプレーしたが、そのオフに現役引退した。奇しくも、松原、田代が引退した時と同じ37歳であった。
村田も、現在、巨人の一軍野手総合コーチとして、師匠の田代同様、後進の指導に当たっている。

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NPB他の球団のチーム8000号本塁打達成者は?


ちなみに、NPBで他球団のチーム8000号本塁打の達成者は以下の通りである。
DeNAが10球団目であるが、ロッテも2020年シーズン終了時点で、通算7902本塁打に達しており、今シーズンでの達成が期待される。

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